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夢見の話

寝ている間に見る夢について。

「この世界、この場所に存在する自分」ではない別の人間の人生の中へと迷い込んだような夢を見ることがある。その人物は生い立ちも、性格も、容貌も、国も、性別も、時代も、家族も、何もかもが違っている(時にそれは地球ですらない)。その瞬間に認識されている「自分」は此処に存在する私ではない全くの別人であり、そこでの人生を生きるということはその人物の抱えた過去から現在までの記憶や感情やトラウマといったもの全てを一晩にして自分のものとして引き受けることに繋がる。そういう時は目覚めるといつも、現実の自分の領域を圧迫されている気分になってしまう。あまりにも膨大な量の情報が私の意識の中にインストールされているからだ。一人分だけでも手一杯だというのに、自分の中に収蔵される「これまで歩んできた人生の記憶」の人数が多すぎる。

私は一体誰の人生に迷い込んでしまったのか、あるいは誰のものでもないのか。

一時期そういった夢があまりにも多かったので、「現実」と認識している此処がただの中継地点の役目を果たすだけの場所のように感じられた。何処かから一度戻り、また何処かへと行くための場所。ひどい時には四時間の睡眠の間に50個くらいの夢を見たことがある。色んな場所で、色んな人生を経験し過ぎた晩。もはや眠ることは休まる行為ではなく、精神的な消耗の方が大きかった。此処にいる私も、数ある「自分」の内の一つに過ぎないと感じてしまうようになったのも無理はない。自己というものがどんどん希薄になっていった。

今は夢を見る量が落ち着いているか、時々「あの人はあの後どうなったんだろう」と思いに耽ることがある。夢を見た時点での現在までしか生きていないので、その先の人生は私にも知る術がない。何を抱え、何に苦しみ、何を思い、何を選択していったのか、自分事として生きたことがあるだけに少し切ない気持ちになってしまう。

もし誰かが私の人生に迷い込んで「私」として生きる瞬間があったなら、それはどの年代のどの時期になるんだろうとも思う。そしてその私の記憶を持ち帰って、何を想うのか。それを考えるとちょっと落ち着かない気持ちになる。

私の中に同時に存在する「自分」達は、一見共通点はないけれど何か見えないもので繋がっているのだろうか。私の中の何に呼応して夢に現れることになったのだろうか。色々考えようとしても、当然のことながら何も分からない。分からないものを勝手に結論付けたり意味付けしたりされたりされるのは私の忌み嫌うところなので、この漠然とした不思議な感覚の中をただただ漂っている。

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とはいえ、所詮ただの夢だ。そこに意味を持たせ過ぎるのは不健全に思う。これは私の見る夢の、一つの傾向として捉えるのが一番おさまりどころが良い気がする。私の精神のありようを構成する大事な要素であることだけは認めて、あとは深入りしない姿勢をこの先も忘れないようにしたい。


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