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岡山のさんたが残していったプレゼント
こんにちは。
久しぶりにnoteを書いている弥生です。
岡山で演劇やってます、と言うことに引け目を感じてはや数年ですが、今日はほんの少しだけその仮面を被っていいかなと思い筆を取りました。
こんにちは。劇的集団転機与砲の月邑弥生です。
お久しぶりです。
皆様、お元気にされていますでしょうか。
今日は、天神山文化プラザさんにEN劇集団さんたばっぐさんの舞台を見に、久しぶりに劇場の座席に座ってきました。
純粋に舞台のお客さんとして、チケット料金払ってみる芝居は久しぶりです。
神経痛でモジモジしてしまったので、後ろの席の人には申し訳なかったorz
EN劇集団 さんたばっぐ
解散公演ラストプレゼント
『僕の右手に君の手を』
ご存知ない方に補足しておきますと、さんたばっぐさんは岡山のハイスピードファンタジー作品の名手。
小気味良いテンポ感、構成が練られた演出と台本、何よりお客様に「ギフト(作品)」を届ける気持ちが強い劇団さんです。
今回の作品は、タイトルの通り。
誰かに手を差し伸べることを主題とした作品で、作品だけでなく公演の随所に手を差し伸べる思いが感じられる公演でした。
この作品では、おばあちゃんという見えない存在の思いを引き継いだ猫が、フォトグラファーの2人の姉妹を引き裂きます。
より美しい、より素晴らしい作品を作らせるために、才能を開花させるために犠牲を伴わせていく。
えぐさを感じないようにファンタジー的に描く配慮がされていましたが、創作の場にある「孤立」という超ハードな状況を描いた作品でした。
良いものを作ろうとして、良かれと思って集団から孤立する。
当事者がそうなろうとすることもあるし、今回の作品のように「よかれと思って」誰かがそうしてしまうこともある。
私としても、身に覚えのある構図。
周りにたくさん人がいるはずなのに、いつの間にか1人ぼっちになっている。1人ぼっちにさせている。
あるいは1人ぼっちになっちゃった人に手を貸すあまり、周囲の人間を傷つける選択をする。
そんな中に、新聞記者の三田が飛び込み、関係を修復する。
と言うお話でした。
作品の肝を全部書いちゃってる気がするんですけど、なんかもうそこを語らないことには感想が書けないわけで!!
荒井さんより「バカ!再演するから伏せろ!!」とご命令をいただければ、いつでも承ります。
(むしろ言われたい)
人間関係下手くそ星人の自分としては、思い当たる事がありすぎて、その構図にしんどいくらい共感していました。
作品の中に仲間をたくさん見つけてしまいます。
あの立場になったこと、ある。
この人の立場にもなったこと、ある。
ああ、この人にもなったことあるな。
ただ1人、あの状況を壊した三田にだけはなったことがありません。
「僕には助けてくれる人がいるから」と、身を投げて助ける彼にだけはなれません。
私にとって大事な人は優先すべき存在であり、自分を受け止める人間だという認識がないからです。(根っからの人間不信)
私は黒猫にもなれるし、姉妹を引き裂く猫にも現実世界でなることができます。
自分のエゴイズムが目的という正義を得た時、私はなんでもできてしまいます。
なにかを壊すことを厭いません。
壊すことのほうが得意だと気づいているからです。
「壊してでも、目的を達成する」
モノづくりを諦めた自分が唯一突き通せるエゴイズムは、それしかありませんでした。
だけどその思いが、周りの人を思いのほか、傷つけることがわかってしまって。
その思いや、重荷に耐えれなくなって。
逃げる選択を私はしたわけです。
演劇から。芝居から。劇団から。
私は三田にはなれませんでした。なりたかった。
なってみたかった。
でも私は、三田のような人を、待つ側の人間でした。
作品を見ながら、「自分がやったことはこういうことだったのか」という過去をメタに見ながら。
あの頃も、今現在も、遠い岸にいる気分の自分に対して、友人たちが変わらぬ気遣いをしてくれていることに改めて気づいて泣いてしまいました。
やだなぁ。抉ってくるなぁ!!
と、思ってしまいましたよ、正直。
でもね、作品に対して自分を投影してしまえるほどに、気遣いがある劇団ってことです。
お客さんが、お客さんなりに楽しめるように、細やかな配慮がなかったら、こんな思いはしないわけです。
痛いけど、嬉しい。
面白かった!楽しかった!
なんかわからないけど、興奮した!
では、ありません。
さんたばっぐの贈り物は、厳しいけれど優しい贈り物だったんです。
説明するのが面倒くさすぎて、誰にもどうせわかってもらえないやって諦めて、主観に閉じ込めた状況を描いてしまうわけです。
描かなきゃ自分の主観世界だけで綺麗なりに、汚いなりに閉じ込めてしまえるものを、作品にしてしまう。
だから身に覚えのあることをした人はえぐられてしまうのです。
そして身に覚えがありすぎる私は、きっちり抉られて。
そして、救われてきました。
そう。
私が「月邑弥生です」なんて文字だけでも名乗れるのは。
ちゃんと救われてしまったからなのです。
あの孤独も、寂しさも、辛さも。
わかってくれる人いるんじゃん。
っていうか、いたじゃん。
ずっと。
1人じゃなかったやん。私。ずっと。
個人的に、作品を自分自身の一部として扱える作品は、とてもいい作品だと思っています。
比較対象がない、ベストワンに入ってしまいます。
私はそう言うものを作ることはできません。
台本を書いても、芝居をしても、究極的には「自分のために」が一番の人間です。
誰かの一部になれる作品を、誰かを思う作品を、私は作れない。
制作したり、受付したりしながら「お客さんのために」と臆面もなく言う自分に薄寒さを覚える程度にエゴイストであることを自覚しています。
認めてはないけど。
荒井良太郎という作家は自分のエゴイズムを自認しながら、なぜこんなに優しい作品を作ることができるんだろう。
不思議な人です。
不思議な劇団です。
エゴもあるけど、人を思える人たち。
それが、さんたばっぐ。
さんたばっぐが最後に残してくれたのは、優しい作品でした。
1人になるなよ、誰かを傷つけるなよ。
悪いことをしたら悪いって、言ってやるから聞けよ。
俺は行くけど、頑張れよ。
なんかそんな風に言われてる気持ちでした。
荒井さんは、やっぱり兄貴だなぁ。
(私、心中では兄貴扱いで慕っておりますの…)
キャスティングを見るだけで、荒井さんの兄貴っぷり感じちゃいますね。
何がどうとはいえないけど。
「1人にならないで」っていうギフトを残して、さんたはソリを滑らせていきました。
いつかまた会いたい。
厳しくて、口が悪くて、だけど優しいさんたに帰ってきてほしい。
ですが今は、いただいたプレゼントを抱いて、もう一度自分にできることを探していきたい。
パンフレットに荒井さんは「僕は何者にもなれなかった」と書いていたけれど。
あなたは、誰かを思ってプレゼントを渡せる、赤ジャージで、口が悪いけど、ツンデレがちなサンタクロース。
いつか、また。
あなたの作品を見たいです。
どうせ、私が弱ってる時に、一等いい作品出してきて、打ちのめしたり、泣かせたりしてくるんだわ。
この人は。
そして私は、よりにもよってそう言う時に、さんたばっぐの作品を見に行くんだわ!
そして、ほんの少しの勇気をもらって、私は明日も生きていくんだわ!!
ありがとう、さんたばっぐ。
あの時、会えてよかった。
あの時、会いに行ってよかった。
今回、もう一度会いなおせてよかった。
ほんとうに、ほんとうにありがとう!!
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