11月の振り返りと12月にやりたいこと

11月の振り返り

11月は、最初の1週間で修士論文の中間提出のためのひたすら書いたという記憶しかない。
その後は、1週間終わったなあと思っていたら11月自体終わっていた。

修論は正直言って書けるかどうか心配だったけれど、中間提出のために途中まで書いたらどうやらとりあえずは書けそうだということになった。
でもやはり文章に書くというのはとても大変な作業だ。
頭でふわふわと考えていることでもそれをいざ順序立てて説明するということになるとなかなか難しい。
ある主張のために順序立てて書いているはずなのになぜか話が逸れて行ってしまったり、なかなか主張したいものを支える土台が作れなかったりする。

でもその一方で、書いてみると意外といい感じに話が進んだということもあった。
正直、主張の進め方とかどんな組み立てになるのかというのは、構想よりも書いてみたほうがクリアにかけて、あ、そういうことだったのかと自分が書いた文章に驚くという経験もした。
やはり書くということは重要だな。

いろいろな本を読んだり、いろいろな人の話を聞いたりしながら考えるということは重要だ。
しかし、やはり書くということも重要だ。
来年からは書くということが強制されないけれどやはり色々書いていきたい。

書かない人は、いろいろな話を聞いたり読んだりしたことを踏まえた気持ちで何かしらのアクションを起こすことで自分の形が形成されていくのだろうか。
私は、アクションを起こして形を作っていくということをあまりしたことがない。
というよりも、アクションを起こしてよくわからなくなるということなのかも。
だから、それがなんなのかということを知りたくて本を読む。
しかし、読むだけではダメだ。
何かしらの形で、「モノ」として見えるようにすることをしないと。

でも、「書く」ということに対してはそこまでハードルを上げていない。
何か論文をたくさん書かないととか、テーマが絞られたオリジナリティのある作品を作らなければとということは考えていない。
というよりも、素朴に書くこと。
それは自分の考えだけではなく。
例えば、読んだ本の要約を書くこと。
感想を書くこと。
Twitterでは、思ったことを瞬時に一言で書いてしまうから人に伝わらないし、後で見返してみて何を言っているのかわからなくなる。
それをもう少し長く書いてみてあとから見返してみて思い出せるような文章を残しておくこと。
そういうことが意外と一番大切なのでは?と思い始めている。

とにかく、「書く」ということに対して大きく掲げずに作業的に書いていくということを少しずつやっていけたらいいと思う。
でも、その小ささは一言で済ますものではなくてちゃんと伝わるように書くこと。
見返して何が何だかわからないようなメモは意味がない。

今、近所のマクドナルドで書いているのだけれど、隣に座っている高校生におじいちゃんが話しかけている。
「かわいいね」「いい顔しているよ」とか。
女の子は、愛想よく返しているが(声しか聞いてなくてどんな顔・姿勢で返していたのかはわからないけれど)、私が気分悪くなってしまった。
彼女は長居せずに早々に帰ったので良かったが。
「怪しい者ではないよ」とか言っていたが、怪しくない人はそんなこと言わない。

12月にやりたいこと

12月は修論を一通り書き終えたい。
提出自体は年明けて月の途中くらいだけれども、早めに仕上げてしまってもう終わりにしたい。

なんとなく来年度からの自分を想像すると、少し怖くなる。
来年度からは、就職して働くことになるのだけれど怖いのは社会に出ることに対してではなくて、どういうリズムで生活していくのだろうかという不安。
働くこと自体は、あまり大きく考えていなくて、働いて生活費が稼げるといいくらいの思いで、あまり気張っていないのだけれども逆に「やらなくてはいけないこと」がなくなる。
ある意味で自由ではあるのだけれど、何を見据えて生活していくのだろうか。

人にとって「時間」は自動的に流れるものである一方で、自分でその流れの感覚を掴んで進めていくという側面もあると思う。
どこかへ移動するとき、目的地が見えればどれくらいで辿り着くのかという感覚が掴めて、自分が歩くというリズムと目的地の距離とを調和させながら向かう。
前方にたどり着くべき目的地があるというのは、時間感覚にとってはとても重要で、これまでは中学高校大学と進む進路があり、私の場合大学院に入って、就職をする。
ある意味で「普通」のライフコースではあるが、そういう未来が想定できてそれに向かって進むという時間感覚が現在こうしていればいいという安心に繋がっていた。
社会人になれば、一般男性の場合、職場に慣れて仕事ができるようになり昇進しつつ結婚をして子供を持つというイベントが次の進む先に見えてくる。
まあ、それ以外にも自分が仕事以外で何かやっていればそれのプロジェクトがあったり自分の夢とかがあればそれに向かって進んでいくということになるだろう。

ただ、私の場合これからそういう先に見える道がまったくないなと。
「結婚して子供を産む」ということもあまり望んでいないし、仕事に生きがいを求めるわけでもない。
今の大学院の仲間でいうと一旦社会人になるけれども、後でまた博士課程に戻りたいという人もいて、そういう人は博士課程に向けて仕事を進めていくんだろう。
私は博士課程には行かないし、すごくやりたいことがあるわけでもない。

やりたいことはまったくないわけではない。
見たい映画もたくさんあるし、読みたい本もたくさんある。
行きたい場所もたくさんあって、これまで旅行とかあまりしてこなかったので色々なところへ行きたい。
海外旅行も行ったことがないから行きたい。
高校まではそこそこやっていた剣道もタイミングを見つけて再開していきたいし、何か楽器も習いたい。
そういう細かいやりたいことはたくさんある。

しかし、そういう細かいことがある一方で、それは先に見える道の短いスパンしか見せてくれない。
長いスパンで自分の生活を語るような枠組みというか、自分が何をするのかということが見えないという不安がある。

この不安に対しては2つの方向性があって、
一つには、何か大きな目標を見つけるというもの。
これは、正面からの解決法で「今何をしているか」ということに対して明確な回答を作るということでもある。
もう一つには、長いスパンでの先ではなく、短くても楽しめるような考え方を持つというもの。
別にどうやって生きるかについてロングタームで考えを持っている必要は必ずしもなくて、今楽しいことを今やっていくということを淡々と続けることに対してあまり罪悪感を持たない考え方もあるだろう。

今の所、この二つの考えに対してはどちらにもあまり可能性が見えていない。
正直「人生の意味」みたいな大文字の問題を背負って生きていくような熱血はないし、そういう人生はあまり好みではない。
かといって、ただただ今が1番というようにやっていけるのかといえば、やはり「なんでこんなことやっているんだろうか」とふと考えてしまうだろう。
この「ふと考えてしまう」というときに、適切な対応がなければ毎回自分はなんて空虚なんだという気分に陥ってしまう気がする。

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