単独行の原理的な不可能性

たった一人で何かを「分かる」ことは可能だろうか。
分かったことを誰かに伝えようという意志や努力や形式を伴わない「理解」は存在しうるだろうか。

無人島にたった一人漂着した人でも、日々新しいことを「理解」できるかもしれない。でも「分かった」と思うその脳裡では、いつの日か体験談を聞いてくれる、あるいは死後日記を読んでくれる誰かのことが、形式的にせよ念頭にあるのではないか。

「伝える」を可能性としてすら排除した理解は存在しないのではないか。理解とは、必ずコミュニケーションのアリーナのうえで、何らかの「表現(の萌芽)」として得られるのではないか。

もしあらゆる「分かる」に「伝わる(かも)」が伴うならば、その潜在的な表現の「受け手」が必要なはずだ。誰でもいいわけではない。「この表現なら分かってくれるかも」と、少なくとも期待できる誰か。「言葉が通じる」相手。「思考の足場」を共有している仲間。

自分がたまたま乗って立つ足場のうえで、同じ足場に立つものに伝わりうる表現としてしか、何らかの「理解」は得られない。もしそうだとすれば、たった一人で「分かる」ことはできないということになる。単独行は不可能だ。理解とは、本質的に、過去・今・未来の誰かとの共同作業なのだ。

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