2020/2/27 谷村先生ツイートを受けて

私の先日のnoteおよび昨日のいくつかのツイートに対して、谷村省吾先生より一連のツイートでのコメントをいただきました。

熟読するためにテキストファイルに貼り付けたところ、約4700文字。構成も文章も非常に練られた、緻密なものでした。圧倒されました。

まずは、私の発信をきっかけに、谷村先生の時間を使わせてしまったことを申し訳なく思います。編集者という立場上、研究者の時間を大切にすることを第一にすべき身です。最近の自分の言動は、一線を越えつつある自覚があります。まして、ウェブ上での「応答」を試みるなど、度が過ぎた振る舞いです。それもわかっています。

それでも、今回のツイートが私の発信が引き出したものであること、私自身が学びを得たこと、さらにこれをどなたか第三者の思考の種にできるのではないかと考えることから、noteにて感想を書こうと思います。(言うまでもなく、さらなる応答を求めているものではありません。)

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一連のツイートは、私が、

谷村氏は、青山著がいう「引き裂かれた精神」を感じていないために、時間の哲学における「問い」の価値を認めないのかもしれない。(丸山note)

と書いたことを受け、谷村先生はそうではないとおっしゃいました。物理学者(そしてその一員である谷村先生)もまた、「引き裂かれた精神」=「二通りの相容れない考えの対立的共存状態」を抱えている。そのことを、具体例とともに説明いただきました。

あるアイデアと別のアイデアが噛み合わない、でも、どちらも、もっともらしく思える、あるいは、一方の立場に立つと他方の立場が根拠のないものように思える、そういう精神状態は人間にとってよくあることだと思いますし、そのようなギャップを埋めようとすることこそ科学の始まりだと私は思います。(谷村先生tweet)

哲学者だけでなく、科学もまた、こうした「引き裂かれ」から始まる。しかし、科学の場合、大きな問いをそのまま扱うのではなく、「大きなギャップを小さなギャップに分けて、実験や理論も分担して、間を少しずつ埋めようとする」(谷村先生tweet)。

私自身は、原子や電子などミクロ世界の量子力学、ボールや車などマクロ世界の古典力学という異質な二つの物理法則がダブルスタンダード的に存在することに「引き裂かれる精神」を抱きますが、引き裂かれずに、つなげよう・橋渡ししようとすることが私の研究テーマの一つです。(谷村先生tweet)

また、時間の哲学の「現実主義 vs 永久主義」という問題設定が、より丁寧な物理学の考察のもとでは意味がなさなくなることを、物体が「時間を刻めるか」がミクロ・マクロのスケールに依存するという話を例に説明されました。

時間という概念は物理学の全分野に通底していますが、それでも「時間の経過という概念の適用のあり方」は万物に共通ではないのです。(谷村先生tweet)

これは『〈現在〉という謎』のp.58あたりでも触れられている論点ですが、今回のツイートでの、ミューオンの崩壊確率などを例にした説明はさらに分かりやすいと感じました。(さらに、これは平井靖史先生が同書第6章で展開する「マルチスケールの時間論」とダイレクトに関連する話題に思えました。)

最後のほうでは、谷村先生による、森田・青山・佐金先生らとの一連のやり取りの評価について述べられます。今回の対立は、「学問についての考え方の成熟度も、コミュニケーションの態度も、あまりにも非対称」(谷村先生tweet)とのこと。すみません、私にはこれにコメントする能力はありません。ただ、『〈現在〉という謎』を初読した際には、それほどの「非対称性」を感じなかった、というのが偽らざる感触です。むしろ、私が抱いた最大の疑問は、哲学者サイドの論考が、物理学者としての谷村先生からいかなるフィードバックを期待してのものだったのかという点にありました。(繰り返しになりますが、もちろん、私のこうした感触・疑問には何の価値もありません)。

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さて、上記のツイートを受けて、改めて「引き裂かれた精神」についてコメントさせてください。なぜかというと、私自身が『〈現在〉という謎』の発行当初からこの本に魅了され、その後もこの件について大騒ぎし続けている理由が、自分自身のなかにある「引き裂かれた精神」にあるように思えるからです。(ここからは、この言葉の引用元である青山著とは切り離し、私なりの言葉として使っていきたいと思います。)

谷村先生はご自身のなかにも「引き裂かれた精神」があり、そこで「引き裂かれずに、つなげよう・橋渡ししようとすること」が研究テーマの一つであるとおっしゃいました。先生は、あくまで「引き裂かれ」を科学の問題として、科学の枠内で解決に近づけていこうとされます。

一方で、私が高校生のとき以来気にしている「引き裂かれ」は、どうやら科学の中にあるものと、科学の中に収まらないもののあいだにある引き裂かれのようです。

「科学の中に収まらないもの」とはなにか。「谷村ノート」から引用します。

物理学は「唯物論化」を正当化する理論ではなく「唯物論そのもの」であり、物理者にとって唯物論化は論点先取ではなく研究・思考の方法そのものなのである。急いで付け足すが、私は世界のすべてが物理学の対象だとは思っていない。たとえば、犯罪に対する量刑の決定などは、物理学の対象ではないし、唯物論的思考対象とは言えないだろう。物理学者は直観的に見て唯物論的方法で扱えそうなことがらを研究の対象にするのであって、「研究する前にまず唯物論的方法で扱ってよいことを論証しよう」とは考えないのである。(谷村ノート、p.22、強調は丸山)

まさにこの中で挙げられている、「犯罪の量刑」はその一例。そのほか、権利、責任、愛、自由、意味などもすぐに思いつきます。

これらは、「唯物論的方法で扱えそう」ではない。したがって科学(少なくとも物理学)の範疇には入りません。私たちがいかなる完全無欠な物理学的な世界記述を手にしたとしても、依然として「人生の意味とは何か?」などには答えは出ません。物理学的(あるいは科学的、唯物論的)な世界記述のなかに描き込めるもの(エネルギー、物質、etc)と、描き込めないものがあるのは確かだと思います。

科学(もしくは物理学)で描き込めるもの・描き込めないもの。その線引きがはっきりしているのならいいのですが、私にとって問題が生じるのは、その線引きがあいまいであったり、一方の領域から他方へ影響が及ぶ場面です。

線引きがあいまいなケースとしては、ツイートで言及された「意識」はその最たるものかもしれません。そのほか、個人的には「記憶」も実は物理学的世界記述の外にあるのではないかと疑っています(cf. https://rmaruy.hatenablog.com/entry/2018/09/23/223511)。そして、「〈今〉」もその一つかもしれません。

物理法則で、自分の身体や脳も含むこの世界のすべての物質の動きが説明できてしまうなら、私の日々使っている「意思」「後悔」「責任」といった概念が無効化してしまうようにも思えます。

こうした「引き裂かれ」においては、科学で扱える範囲の外にあること(もしくはその可能性)こそを問題にしているので、これを科学の問題に切り分けて解いていくというオプションが(少なくとも現段階は)とれないように私には思えます。分析哲学がその任を十分に担いうるのかは分かりませんが。

もちろん、この「引き裂かれ」を、実在しない「疑似問題」として振り払うこともできるかもしれません。でも、依然としてなぜその疑似問題が生じるのか、という疑問は残ります。これは、少なくとも私にとっては、問う価値のある問いに思えます。自分がどう生きるかにかかわるためです。

最後に、じゃあ、哲学者は、科学が扱えない「引き裂かれ」を解消すべく、何か前進できているのか、ということですが、私個人の意見ですが、少なくとも青山拓央先生の著作は、「心的時間」の問題に焦点を合わせて考え続けることで、誰も見たことがない風景を見せてくれているように感じます(『心にとって時間とは何か』など)。

時間を無駄にしてはいけない、と谷村先生は言います。私もまったく同意見です。今32歳ですが、何歳まで生きるか分からない。今回の感染症の拡大が尾を引き、日常生活を侵食し始めるかもしれない。今年の台風で被害を受け、本を読むどころじゃなくなるかもしれない。その限られた時間を、私は『〈現在〉という謎』や谷村ノートや、青山拓央先生の著作を読むことに費やしています。それが自分にとって最も価値があることに思えるからです。

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