内発的な、にわか仕込み

公的機関の「シンクタンク部門」に勤め始めてもうすぐ2年。任期ももうすぐ折り返し。この仕事の意義、自分がやっていることが何に貢献しているのか見定められない時期が続いてきたが、さすがに少しずつ勘所がつかめてきているような感じが全くしないこともない。

意思決定をしなければいけない誰かの求めに応じて、あるいは集団的な意思決定が起こりそうな現場を見つけて、予備知識ゼロのところから専門知をかき集め、並べ、角度をつけ、一つのストーリーラインをこしらえ、投げ込む。当然、解像度とスピードにはトレードオフがあって、2週間でできることはそれなりだが、少なくとも「ないよりはよい」もの、そのままゴミ箱に捨てるほどでもないものにはなる。


発注者である雇用者からは、漠たるテーマやキーワードが与えられる。注意すべきは、仮に指示が「問い」の形をしていたとしても、その「問い」が問うべき問いとは限らないこと。まずは自分の好奇心に取り込んで、私自身がそれを「本当に知りたい」状態をつくる。そうすれば、本当の問いを見つけることができる。問いが見つかれば、探究が始まる。それを溜めて、加工して、切りとれば、何らかのアウトプットが出る。

「Aをどうしたらいいか?」という判断を巡る議論には、「XのためのA」「YのためのA」「ZのためのA」という多重の目的や想定が非明示的に文脈として潜んでいることがほとんどだ。仮に発注者がXの文脈を念頭に入れていたとしても、こちらはありうる文脈X、Y、Zを想定する。発注者よりも高い次元で問題を捉えてみる。次元を上げて調べたうえで、納品時には視点Xに潰したものを出せばいい。本体のほうは、あとから別の発注にも使い回せるわけだ。

しかしそもそも、そんな絶えざる「にわか仕込み」が一体何の役に立つというのだろうか。発注者の代わりにファクトを収集する「まとめ係」的な機能、それも確かにあるだろう。それとは別に、「言葉をあてがうことで、見通しを少し改善する」役回りがあるといってみよう。なんとなく焦点が定まらない議論に、「概念」や「座標軸」を提示してみる。素人考えだから、すぐに捨てていいというのがメリットだ。うまくいけば、すれ違っていた意見が、同一平面の上に載り、膠着状態から一歩先へ進むことに寄与するかもしれない。

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