夜は問いを変える

某機関の「シンクタンク部門」に勤め始めて10か月が経った。与えられたお題に対して、情報を集め、咀嚼し、ワードやパワポにまとめる日々。そんな「勉強」のようなことで給料をもらえる仕事があるだなんて知らなかった。

とはいえ、楽しいだけではなく、割としんどい。行き詰まっているかもしれない。

ミッションは、○○問題に関する現状と課題について、数か月後には(少なくとも組織内の)誰よりも詳しくなること。それらしい「解」のようなものについて、それらしいプレゼンができるようになること。

とりあえずググる、本を買う、読む、読む、読む。詳しそうな人を探す、zoomのアポを取る。情報と情報がつながりそうになると、ちょっとうれしい。今度こそ全体像が垣間見えるかもしれない。でもまだ決定的にわかっていない感じもする。現場との距離感が測れない。何をどこまで知ればいいのか。少し集中が切れれば、「○○問題」への興味が急速に薄まる。五里霧中に舞い戻る。

シンクタンクに限らず、頭脳労働とは、自分の思考のリソースを差し出して対価を得ることだろう。まずクライアントからお題が与えられる。何らかの「システム=事業」を首尾よく回すうえでの「問い」だ。少なくとも業務時間は、そのシステムの問題設定を境界条件として、思考を回すことを課される。

何十年もその「設定」の中で考え続けて、それをあたかもそれが自身の内発的な問題意識であるかのように話す人もいる。驚異的だ。でもたいていの人はそうではない。業務と人生に距離がある。だから、プレゼンのとき、口だけが動くようなしゃべり方になったりする。

夜、家事も終わって時間ができると、少しは仕事から離れて、自分の好きなことしてみようと思う。でも最近はうまくいかない。仕事の続きを考えてしまうのだ。あれはどうなってんだっけ。今日読んだ資料、メモにしとこうか。自分の思考と言葉が、業務の問題設定に縛られている。このまま寝たら、夢の中でも考えてしまいそうだ。元来興味がないことについて考えるのをやめられないというのは、なかなかしんどい。

そこで思った。こんな時こそ「学問」の出番ではないか。昼間考えていたことを、一歩引いてとらえてみる。なぜ、そもそも、自分の関わっている事業において「○○問題」が問題なのか。たぶんこれは業務上の問いではなく、学問の問いだ。俄然面白くなる。歴史学、経済学、社会学、哲学。そうした学術の蓄積と接点を見出せるか。もしできれば、昼間の自分の苦闘が、興味深い「ケーススタディ」に変わる。

私たちは、いつの間にかできあがった極めて不合理な「システム」に半ば強制的に組み込まれている。学問は、その不自由さの「解決」には役立たないかもしれないが、それを自分なりに眺める別のperspective(視点)を与えてくれる。その新たな視点は、真正面から不自由に立ち向かうのとは違う仕方で、思考のスペースを広げてくれる。

そんなこんなで、少しでも好奇心の芽に水を遣りつづけてみる。それが、昼間の「課題解決」にも役に立つなんてことがあったら、言うことはないのだけども。



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