「AIと価値観・思想」をめぐる3つのスタンス

昨今、AIについて話していると、かなりの確率で「価値観」や「思想」の話に行きつく。昨日まで参加していた人工知能学会でも、「人間中心主義からの脱却」、「AI時代の価値観のアップデート」などの言葉が何度となく聞かれた。技術を主に議論する場であるはずのAI学会でそうなるほどに、昨今のAIのインパクトは思想のドメインへと広がっている。

ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』で言うように、人間の社会は、宗教、国家、貨幣、資本主義、科学など、人々が共同で作り上げてきた「虚構」によって安定化されている。しかし今、「AI」と呼ばれる技術・サービス・システム、あるいはAIというアイディアそのものが、そうした社会を支える共同幻想に揺さぶりをかけている。

AIは、人や動物のように心を交わすべき新しい他者なのか。人知の及ばないエイリアンなのか。AIによる社会の変容をどこまで受け入れるか。AIを通して人間自らの自己イメージの刷新にどこまでオープンであるか(例:人間の知能はどこまでLLMと同じなのか?)。

ここには様々な態度の分岐がある。「思想」というのは、あるべき人生や社会に関する価値観や態度のセットのようなもの。かつては資本主義 vs 社会主義のような思想の大対立があったわけだが、21世紀の思想の相克は「AI」を中心に戦われているように見える。

極めて雑な話にはなるが、「AI」と「自身や社会の価値観・思想」をめぐるスタンスには、大まかに三つくらいのタイプがあるように見える。

  1. 自分の価値観・思想に沿ってAIをつくる。

  2. AIによる挑戦から、既存の価値観を守る。

  3. AIを受け入れつつ、価値観の刷新の好機ととらえ、思想を新たに作る

「1」は、シリコンバレーの起業家たちで多いとみられる、加速主義、長期主義、トランスヒューマニズムなど、今日の主流ではない価値観・思想に駆動されテクノロジーを生み出そうとする人々。橘玲『テクノ・リバタリアン』の副題は「世界を変える唯一の思想」だが、まさにこの人たちは自らの思想に沿って「世界を変える」ことを目指している。

「2」はそれとは真逆で、人権、民主主義といった、今の世界のマジョリティ(少なくともリベラルな先進諸国が建前として共有している)の価値観をAIによる挑戦から守るというスタンスで、欧州のAIガバナンスに象徴されるもの。

一方、日本では、一部の科学者やフューチャリスト的な指向性を持つ人々で「1」のスタンスを感じるほかは、人社系、技術系を問わず、いわゆる「非西洋中心的な新たな価値観」を待望する論調が多い印象をもつ。つまり、AIを受け入れつつ、価値観の刷新の好機ととらえ、むしろ「思想」のほうを新たに作る方向性の「3」のスタンスだ。押し付けられた価値観で暮らしている不自由さのようなものが、暗に共有されているのかもしれない。

私自身の心情としては、今のところ「2」と「3」の間くらいのところにいる。がちがちにこれまでの価値観を守りたいとは思わないが、AIによる価値観の刷新にオープンでいることにそこまで楽観的でもない。「非西洋中心的な価値観」を口にする人も、その日々の中では民主主義や人権の恩恵を受けているはずで、「水がなければもっと速く泳げると空想する魚」と似た浅慮に見えることもある(このことは、「1」の人たちにも強く当てはまる)。

「3」の方向を本気で目指すなら、居酒屋談義的に「非西洋」と言っているだけでは全く不十分で、かなり真剣に挑む必要があるだろう。たとえば京都哲学研究所の出口康夫先生は、哲学の役割として「価値観の提案」を明示的に掲げ、AIとの関係性の見直しも中心的な論点として扱っている(『AI親友論』)。出口先生の構想に乗るにせよ別の方向を打ち出すにせよ、本当に次の社会を支える価値観・思想を求めるのであれば、西洋が勝ち取ってきた近現代の思想も吟味したうえで、オルタナティブを骨太に鍛え上げていく作業が必要だろうと思われる。

私個人としては、価値観・思想を「つくる」というよりは、「視点をずらす技術」を磨いていきたい。「AIと人間は○○のような関係を目指すべきだ」という規範が掲げられたとき、あるいは「AIと人間は○○という関係になってしまっている」という現状を突き付けられたとき、「いや、でもAIってこういうものだともみなせますよね」というフレーミングを変更する選択肢をもっておくこと(たとえば三宅陽一郎さんの論考に着想を得て先日考えてみたのが「家としてのAI」)。いまのところこれ以上うまくいえないのだが、「1」「2」「3」の人たちとも日々付き合いその視点を学びながら、裏ではそうした認識論のレパートリーを増やす努力をしてみたい。


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