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いつかまた会えたら

 今日は7月23日。金子文子が獄中で死んだ日である。享年23歳であった。死の実情は不明だが、巷では自裁死とされることが多い。これは私の憶測にすぎないが、思うに、金子文子は「金子文子であること」に忠実なひとであっただろうから、きっと獄中でじぶんの命を飼い慣らされて死ぬなり殺されるなりするよりも、自裁死を選択したのではないか。
 自殺という言葉を、私はあまり好まない。じぶんを殺すと書いて、自殺である。じぶんをじぶんの生命にケリをつける審判者たらんとする気概が感じられるので、私は自殺よりも自裁死という言葉の方が好きだ。
 国家という共同幻想に「死刑」という形で命を奪われることは、じぶんを疎外してやまない世界と和合し、世界の中に自己が吸収されていく幸福を手にすることを意味するのではなかろうか。これに対して、獄中での自裁死は、世界と自己との断絶を断絶のままに、あくまで無意味なじぶんの命というものに固執する姿勢につながるのかもしれない。『異邦人』のムルソーは、金子文子の目にはどう映るのであろうか。

 金子文子は、私にとって「ふみちゃん」という感じがする。笑っちゃうぐらい同じようなひとたちから思想的に影響を受けているし、この点が関係しているかどうかはよく分からないが、根本的なところでじぶんと同じようなことを考えながら生きていたようだから、どうも赤の他人とは思えないのだ。だから、あの思想を身体ごとで表現し切った強さに最大の敬意を表するという意味も込めて、私は金子文子のことをふみちゃんと呼んでいる。心中を露骨に晒したい相手とは、フランクに接したくてたまらないからだ。

 ひと昔前に、ふみちゃんと朴烈をテーマにした韓国映画が公開されたが、どうも映画館に足を運ぶ勇気が持てなかった。なぜかというと、朴烈と共に語られる金子文子像に、私なりのふみちゃん像が噛み合う気がしなかったからだと思う。たしかに二人の純愛にスポットライトを当てた方が人様のウケはよろしいのかもしれない。運命に翻弄される愛というカタルシスの物語は、きっとカネになるはずだ。だが、思うに、ふみちゃんと朴烈の関係性の根っこの部分は、思想的に共闘する「同志」というところにあり、恋愛感情や共同生活といったものは、この根っこに対していえばあくまで枝葉に相当するものに過ぎなかったのではないか。ふみちゃんは女だ。だが、その前にふみちゃんはふみちゃんである。女であることは、たしかにふみちゃんという思想家を形作る要素の一つであるが、朴烈と共に語られる金子文子像においては、朴烈という男性パートナーと共に在る「女性思想家としての金子文子」という点が強調されすぎるきらいがあって、これは本人の意に沿わないのではないかという気がしてしまう。もちろん、根っこも枝葉も、樹木という全体性を形成する上ではかけがえのないパーツであり、各々のパーツには全体性の血が脈々と流れているわけではあるが。

 ビジネスバックに、いつもふみちゃんの獄中手記を入れて持ち歩いている。私にとってはお守り代わりみたいなものだ。仕事中はシチズンの腕時計をつけているクセに、我ながら存在矛盾も甚だしいなと思う。
 都心を歩いていると、じぶんが今見ている景色は、ひょっとしたらふみちゃんの目にも映っていたのかもしれない。そんなことをよく思う。生きている時代は違うが、どこかでふみちゃんの視線とじぶんの視線がぶつかる「点」みたいなものが町中にひょっこりと顔を出している瞬間があり、気が付けばふみちゃんが隣にいたりするのだ。私は孤独だけれど、真に孤独ではないと思う。

 ふみちゃんは、手記の後書きにこんなことを書き遺している。

間もなく私は、この世から私の存在をかき消されるであろう。しかし一切の現象は現象としては滅しても永遠の実在の中に存続するものと私は思っている。
私は今平静な冷やかな心でこの粗雑な記録の筆を擱く。私の愛するすべてのものの上に祝福あれ!
(金子文子『何が私をこうさせたか』岩波文庫、2019年、408頁。)

 ふみちゃんという現象は、たしかに地上からは消えてしまった。私がふみちゃんの肉体の温もりを知ることはできない。
 私もいずれ、この地上からオサラバしてだだっ広い世界に吸収されるであろう。みんな何もないところから生まれたのだから、みんな何もないところに還るだけである。何もないところで、ふみちゃんも私も、そして私という現象がこの世界に存在していたことを知るであろう後世の人間たちも、きっとまた会えるはずだ。高橋新吉が詠っていたように、みんな五億年経ったら帰って来るのだ。果報は寝て待て。

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