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うつくしいものを理解したい、という欲求について


ここ数年、美しいとされている事物に触れる機会がかなり増えた。絵画、音楽、映画、舞台芸術、あるいはサブカルチャー的なものまで、とにかくたくさん。能動的に鑑賞することもあったし、人に誘われてぼんやり着いていくこともあった。
基本的に知識欲の高い部類な自覚のあるわたしは、興味ないなあと思いながら見たものも、結果興味が湧かなかったものも、どうしてもこれだけはとしがみついて見たものも、かなり等しくドライに、じぶんに埋め込んでいった。

これは主観の話になるけれど、他者(自分以外のすべてのなにか)から創り出されたものを、まるきり自分のものみたいに飲み込めるのは、自分の中で作品に対する100点の解釈が生み出されないと不可能だと思っていて、
たとえば小さいころにいちいち登場人物の容姿や声色なんかを想像してまるでドラマみたいに組み立てながら読んだ挿絵のない小説、あるいは行間を読み取れたなと自覚できるほどに結末に納得のいく読後感とか、そういうぱちんと気持ちよく当て嵌まる瞬間(しっくりくる言葉をなぞれなくてちょっときもい表現)が、わたしはどうしたって欲しい。理解したい。全部。かみさまになりたいわけじゃないけど、だってしらないものほど怖いものはないから。
で、また主観だけど、わたしは視覚から入ってくる情報にいちばん弱い。絵画なんてまさにそうで、解説読まないと「このひと絵が上手いなあ」ですべて終わってしまう。なんて教養がないんだろうとがっかりしちゃう。かわりに言葉、文字、のニュアンスとか行間とか、思い馳せる系には強い。

要は弱点を克服してもっと強くなりたいだけなんだけど。

演劇も映画も一方的に情報を与えては逃げていくうつくしさ。脳がトロいから噛み砕くのに10かい思い出す、それから想像して、想像して、考え込んで気持ちがのみこまれてはじめてわかる。たまに奇跡が起きて、見ながら気持ちごと乗っ取られたみたいにうねる。それで精一杯。
何度か絵画に、ひいては「みる」だけで完結する芸術、それに弱い。だってわかんないじゃん、恋とかと一緒かも。大事なことは言葉でつたえなきゃ。でも絵画に言葉なんてナンセンスだ。だから、鈍感だし、もっとわかりたいというわけだ。

小賢しいぶっているだけかもしれない。でももうちょっと、自分の中で納得できる解り方がしたい。
という欲求について、きょう所謂名画さんたちを眺めながらずっと考えてた。

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