美しい仮面よ、私はお前を知っている by Sainte-Beuve

これらのスクショはパスして結構ですよ。
これらのスクショはパスして結構。

竹田のこの陽水論は過去にセンター試験だったかに出題されたものだ。いやはや読んでいて気恥ずかしくなる体の文章ではないか。(読みにくいでしょうから、以下の文章で出来るだけ分かるように書いたつもりです。)

まず冒頭の陽水歌詞からして月並みだ。「笑顔で隠す男の涙/男は一人で旅するものだ/荒野をめざして旅するものだ」。女性についてもそうだ。「女は清くやさしく生きて/電車に乗れば座席を譲り/悲しい歌が聞こえてきたら/ほろりと涙流してしまう」

性別二元論に基づくmale chauvinism(排他的男性中心主義)というか情け無いほどの男女の「定型」を歌っている。もうこれだけで先を読むのをやめてしまいたいほどだ。

この陽水の歌詞を絶賛する文章を読まされる受験生に同情したくなる。だがここで問題にしたいのは、この丸出しの通俗性でも男性優越論でもない。

サント・ブーブの「仮面舞踏会に入って行くときにはすべてが目新しく見える。しかし、いずれはこの目くるめく色彩の群れすべてに向かって「美しい仮面よ、私はおまえを知っている。」と言い得る時が来るものだ。

竹田は言う、「〈世界〉の入り口に立っているときは、〈世界〉は、その奥底に恐るべき魅惑を秘めた、欲望な対象として現れている。だがいったんこの〈世界〉を通り過ぎてみれば、わたしたちはそれが何であったかを言うことができるわけだ。

(中略)だから、大人の、「美しい仮面よ、私はお前を知っている」は、彼が青年に対して優越感を持ってちらつかせたい〈真理〉のようなものになる。」

この「知っている」という「知」の独占がいかに若者に対して抑圧的な言動となるか。いや竹田も「〈真理〉のようなもの」と述べているように真理ではないかも知れない。だか知っているかのように「優越感を持ってちらつかせる」なら話は別だ。

かつて竹田についてこう書いたことがある。

それにしても彼のこの〈知っているとされる者〉の権威を担保するものは何か、権威を支える根拠はどこにあるのか、というならそれこそ同じ在日であり、自分こそが在日のことを「知っている者」だと疑わず(「私もまたかつて〈在日〉の問題範型のこのような迷路を、何度も何度もたどりなおしたので、それがせんじつめるとどういう場所にいきつくのかをよく知っている」p245。「よく知っている」「範型」という表象に注意されたい)、だからこそ彼は「〈在日〉という根拠」と自著を命名するのである。(拙論『読む、時代を?』)

竹田は自分が在日であるから、在日のことはすべて(範型という語これを暗示する)知っているというのだ。よく知っていると豪語するのだ。この竹田の言説構造が先のブーブ論と同じような構造を成していないだろうか。

この時、彼が取り逃してしまうのは在日の差異や多様性であろう。例えば「在日二世」といっても日本に来た時代や、単身か夫婦連れか、家族挙げてか、親族諸共か、出身地は済州島か全羅南道か、それとも釜山か、猪飼野か広島か、都会か「田舎」か、それらの差異を抹消するのが「在日二世」というクリシェだ。「私は在日だ」という表象は同じような機能を持たないとは言えない。これらの表象(representation)は、まさに在日を代表(representation)する機能を果たし、竹田はそれを自負していることになる。

そしてこの「大人」が「若者」に向かって〈真理〉のようなものをちらつかせる姿勢は、知の独占によって他者を抑圧することを含意しないだろうか。

世間はそんな甘いものではない、お前はまだ大人の世界を知らない、いやいや大人は「通り過ぎた世界」を知っているのか、本当に知を所有しているのか。

しかしそれでもお前はまだ若いし世の中のことが分かっていないという家父長的言辞が子どもを抑圧するように、知の独占が「原住民」や「遅れた文明」の人びとを支配し服従させる権威を獲得する。


無知で蒙昧なお前たちを教導し蒙を開いてやるのだ、それが文明人の義務なのだ。

家族主義的な家父長制が植民地化と直結している。知や文明が支配の大義名分となり、錦の御旗となる。啓蒙が野蛮な行為となるのだ。(アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』やトムリンソン『文化帝国主義』やサイード『文化と帝国主義』を参照)