梁容子*やん よんじゃ

  次の一節は一九八五年の指紋押捺拒否闘争の頃の梁容子の文章。

旧態依然とする儒教制度にがんじがらめにされ、家事育児はもちろん、祖先を敬う民族よろしく祭事に追いまくられ、夫の親には孝行を、嫁に行かない女は「人間でないかたわ者」と、民族解放を論じる同じ舌で「人間」から排除。結婚すれば男を生むまで子をはらみ続け、そして家内工業の無償の労働力として働かされる。さらに「女は政治や男の話に口をはさむものではない」と、社会性を持ち男と同じ知的水準を持つことを厳しく封じられる。まったく妻は夫の奴隷なのである。

在日朝鮮人の父は日本の下請けを、母は父の奴隷で、奴隷は自分を犠牲にすることによって「家族」が成立しているように、社会全体がこの構造同様に男が女を、女が自分を犠牲にすることを制度やモラルとして強制している。……

女に対する非人間的抑圧行為を問題にしないで、「侵略したことのない民族」とか、文化的にすぐれた「誇り」とか言っても、まったく意味のないものである。日本が戸籍にこだわる民族であること、朝鮮人が本貫(ポンガン)という先祖の出身地にこだわる民族とは、どうも似通った血の「同一性」を基点に差別の構造を制度化していると私は考えている。ともに排他的な民族である。……

ナショナリズムとは何か。体制が変われば戦争を肯定する思想である。被差別の民族がいつも「正義」の中にいるとは限らない。「指紋」の闘いは、私たち一人ひとりの人間の「自由」と「解放」のあり方をまっこうから論じる闘いであって、「法改正」はあくまで方法論の問題である。「人間」の中に「女」が含まれていくことを当然私はくり返しくり返し提起してゆく。(「働くなかまのブックレット」共同編集委員会編『指紋押捺拒否!--差別・分断・管理の外登法体制』新地平社:傍点原文)

 この痛切な叫びにも似た宣言は鄭(チョン)(ヨン)()の名著『〈民が代〉斉唱 アイデンティティ・国民国家・ジェンダー』からの孫引きである。

彼女たちは夫の奴隷となった女性を「従夫慰安婦」とまで呼んでいる。ここで梁容子の言う女性が「奴隷」だという表現は比喩ではないことに注意したい。梁容子の文章は『ひとさし指の自由』1984に、「ひとさし指の自由と女の自由と」p67-74という表題の短い文章が掲載されている。

「『夫婦のあらそい』と『強姦』という犯罪とはちがうと考えている人もいるだろう。でも『強姦』は性衝動にかられた行為というより、男の内側につもりつもったコンプレックスがひっくり返って弱い者に向かいあった時に、力と強さを誇示して相手を支配する行為。このパターンはアブノーマルな犯罪ばかりか、日常的に繰り返されているあらそいにも現れている。本質的にはおなじなのだ」。

レイプと同じく、夫の妻に対する暴力は「力を誇示して相手を支配する」点で同じなのだと彼女は考える。「男が中心の世界に『人間の自由』はありえない。父に権力が集中している父権制家族制度の実態をそのままにしていたのでは『人間の自由』はありえない」。

彼女の思想は「人権はみんながもつものまもるもの」という言葉に尽きるという。「私の幼い頃の記憶は、父の母への暴力に始まる。血走った父の目と、ぐったりのびきった母のボロ雑巾のような肉片。その肉片が『アイゴョ、アイゴョ』と微かな吐息をもらしては生き返ってしまうから、母は毎日殴られ続けたのだと私は今でも想っている」(強調原文)。

そんな記憶から梁容子は「なぐられ けられて 母は生きた/鉄の檻の中 母は死んだ」という歌を歌う。「私が二〇歳になった直後、母は力尽き、『うつ病』と診断された後、精神病院に入院して一ヵ月後に病死した。母はアッというまに白い骨になってしまった」。

だから「お母さん! あなたのように生きたくない/お母さん! あなたのように生きたくない」と歌う。この歌を聞いた(梁容子は歌うことで、シンガーソングライターとして抵抗を表現していた)「在日朝鮮人の女性」が「この歌はよくない!」、「アボジ(父)は状況が状況だったためにそのようにしか生きられなかった。だから、アボジのことを悪くいうのはよくない」と言い、また「年配の朝鮮人男性」は「わが同胞社会は男が女に甘えている現実がある。女性の強さに支えられている。しかし、男は男で社会的に民族を統一させるために闘ってきた」と言ったという。

「『強く、やさしく、たくましい』母性、その理想から母が『おちこぼれ』たといいたいのだろうか。しかし、そんな母性は底辺の女に押しつけられたイメージ。体制を支えるエネルギーの源。こんなイメージに頼っている父権制社会は支配構造の柱そのものなのだ。それなのに活動家でさえこうしたことを問題にしないまま『人間の自由と解放』を訴える」(強調原文)と主張する彼女の言葉は、三十六年後の二〇二〇年には解消されているのだろうか。この年月は無駄に流れていなかっただろうか(梁容子の母親の「母は力尽き、『うつ病』と診断された」から思い出して欲しいのが、『82年生まれ、キム・ジヨン』の形式がキム・ジヨンの治療を担当する精神科医の手記という形式をとっていることだ)。

植民地主義がパターナリズム(家父長制)と同根であるように、「現在の政治構造、政治慣習のほとんどが、家父長制にルーツを持っている」(ベティ・リアドン『性差別主義と戦争システム』1985p59)なら、性差別的な家父長制が続く限り、世界の、社会の戦争システムの崩壊することはない。

戦争システムの基本にある「もっとも重要な二つの点は、ほとんどの社会では、男性が攻撃的衝動に身を任せることを許しても、女性にはそれは許されず、また勝つためであれば、男性は暴力を容認してまで競争を奨励するものの、女性の競争については、これを阻んでいることであろう」p36という一節は、八〇年代のテクストらしく性を本質化・実体化するニュアンスが感じられるものの、家父長制が〈男らしさ〉や〈女らしさ〉を強制し、このような女性と男性のさまざまな場での役割分担を強固に維持するように機能するエコノミー(機構)であるのを一瞥するだけで、称揚される男性の攻撃性と透明化される女性の服従性が問題となるのは理解できる。

「レイプの本質は、力と暴力を使って、あるいは力と暴力で脅して、人もしくは人々に、従属と従順を強いることである。敵や属国民の扱いには、性的攻撃と類似があり、生き延びるための力への服従が、性差別主義と戦争システムを可能ならしめている」p70-71のであり、レイプが「戦争システムの究極的な隠喩であ」p72るというのは至言であろう。

このことはレイプと夫の暴力とが「力と強さを誇示して相手を支配する行為」で同じだと見る梁容子の指摘と一致する。もはや古典となったS・ブラウンミラーの『レイプ・踏みにじられた意思』には「強姦とは、すべての男がすべての女を恐怖状態にとどめておくことによって成立する、意識的な威嚇のプロセスにほかならないのだ」p6という警告が読める。

家父長制は植民地主義ばかりか、性差別主義と戦争システムに関わるものであり、それは植民地主義が資本主義的な帝国主義として戦争による植民地の拡大を狙うものであるなら、それを性差別主義的な家父長制が支えているのを見るのはそう難しいことではないだろう。

鄭暎惠は梁容子の文章を引用した後、続けて次のように述べる。

「いくら帝国主義を打倒するためとはいえ、自らの民族を死守して排他的になるばかりだとしたら、それもまた、民族の解放とはなりえない。差別されることのない、そして差別することこともない民族とは何か。民族差別に反対しながら、女・子どもを抑圧してきた男たちの問題、ばかりではない。こうした民族内の文化・制度・モラルに反対するどころか、逆に内面化し、それらに進んで加担してきた、女たち自身の問題でもある。差別者とは「外部」にだけあるのではない。自分(たち)が自分を差別する――これが最もキツイ差別だろう。p15

 鄭暎惠は家父長制の問題は、夫たる男に固有のものではなく、妻たる女性の問題でもあると議論を進める。「進んで加担してきた、女たち自身の問題」だというのは、家父長制維持のために夫の跡取りたる男の子を産むだけの存在と見なされて来た女性も、息子が家長になれば、息子を操る「影の実力者」として家父長制の恩恵を受けることが分かっているから、儒教的家父長制に徹底して反抗しなかったという旨のことを述べていた。

朝鮮の女性が、「影の実力者」となるまではと家父長制下の自己の貶められた位置を分かっていて我慢し耐えていたとするなら、まだ十分に家父長制を内面化していないのかも知れないけれども、我慢し耐えていること自体を女の(妻の)美徳として生きていたのなら、それこそ完璧な内面化だと言えるだろう。幾重にも影のベールで被われた女性たちは二一世紀の世界まで延々とつながっている。

(これらの拙文は『読む、時代を?』からの抜き書き)

梁容子(やん よんじゃ)は20201220日に逝去した。享年70歳。生前に一度だけ(2020年4月)電話したものの脳梗塞を起こしていた彼女は言葉が不自由だった。でもコロナが収まったら会いましょうと約束していたのに果たせなかったのが悔やまれる。


以下の様な記事を見かけました、転載しておきます。

フェイスブックより
梁容子(ヤン・ヨンジャ)さん、
享年70歳1220日頃、死去されました。
梁さんは、在日コリアン2世として生き難い時代に、女としての問題意識と在日コリアンの問題に苦悶し、自分独自の道を切り拓かざるを得なかった貴重な人です。
常にその発想は奇天烈で、
指紋押捺拒否を始めた最初の方の人として、大阪の東淀川区で東淀川警察署の逮捕にも屈せず、「自分の足では逮捕に従わない。一切自分の足では歩かないので連れて行くなら警察が抱えて連れて行け!」と警察に両側を抱えられ車に乗せられるところを、Vサインで写真に収まり新聞に大きく掲載され、勝利を飾りました。
その人たちの闘いの結果として、現在の外人登録証の指紋押捺が最初の一度きりに法律を変えるきっかけとなった事は今の世代にとってあまり知られていません。
そして、女のための大工教室を同じ住んでいた東淀川で営み、RRの屋号で大いに内装や家の修繕といった、それまで女が仕事としてやる現場ではなかったところに進出させていきました。
その後、木工から木のうねりのある根っこに興味を持ち器作り、そこから漆に興味は発展し、沖縄の琉球漆の学校へ沖縄へ移り通い習得し、東淀川に帰ってきてからR&Rでの女のための実技教室を続けながら、多くの木工漆作品を作り展示も精力的に行う人になっていました。
梁さんの在日コリアン2世のある意味壮絶で暗かった青春時代から、当時のウーマンリブとの出会いでよく言っていた言葉が「孫悟空の輪っかを外すことや」でした。
それまでいろんなたがはめにがんじがらめにされてた自分を自分の固定観念を外すことで自分の手で外せば良いんだということでしょう。
そんな梁さんに影響を受けた人は数知れないと思います。
指紋押捺拒否をやりながら、それまで歌う人だとは一向におくびにも出さなかった梁さんが、同じ問題を訴えるなら講演会とかやるよりも自分は歌で訴える。と、突然シンガーソングライターになって、在日コリアンの女の持っている持って行き場のない怒りを歌に込め、「私は青いとんがらしダ!」という歌や、
就職差別に会い履歴書を100枚も1000枚も書く、という歌は非常に自分とこれからの若い世代に向け励ましの暖かい言葉と笑いが、ある。そんな歌たちを多く作りながら、指紋押捺拒否の運動を終えると途端に歌わなくなったり。
梁さんの興味は何かに収まることではなく、常に流転を目指し一定の固定観念におさめられることを一生嫌って生き抜いた人だと言えます。
そんな人の通夜と葬式が、このコロナ禍でやるそうです。
決して皆さん無理をせず、そんな事は梁さんは喜びません。
しかし、そんな梁さんの生き方に触れていた人が梁さんの訃報を知らないままではいけない、とも思いますので、一応お知らせしておきます。