『さよなら絵梨』を読む
藤本タツキの漫画『さよなら絵梨』を読んだ。それについて書く。
映画という芸術分野は、何が嘘か何が本当かというテーマについて深い興味を抱いているものだ。それは例えばタランティーノの『イングロリアス・バスターズ』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が史実と異なる結末を描いたり、あるいは『シン・エヴァンゲリオン』が作画をあえて崩壊させて、実写の映像を用いたりするところなどに表れているように思う。
『さよなら絵梨』も、漫画ではあるが、そうした系譜に属する作品である。絵梨は主人公の最初の映画を評して、こう言う。「どこまでが事実か創作かわからない所も私には良い混乱だった」。
この作品は二重の意味で分かりにくい。どこまでが作品内の事実なのか虚構なのかが分からないために混乱させられるということに加えて、ストーリーも実は難解である。最後の爆発のシーンをどう解釈していいか分からないという読者がネットにはあふれている。
『さよなら絵梨』のストーリーは、読者をだましに来ている。絵梨のドキュメンタリーを撮る場面は、いかにも若者の青春らしくすべてが煌めいており、絵梨の最期もじつに感動的である。ふつうは絵梨が「みんなをブチ泣かして」と言う見開きの箇所でぐっと来るだろう。僕もかなりノックアウトされた。しかし本当は、こうした流れすべてが読者に仕掛けられた罠である。
よくよく反省してみると母親を撮るときも絵梨を撮るときも、主人公の優太がやっているのはただ相手の望みに従っているだけのことである。美しく人の記憶に残りたいという気持ちがそれだ。そこに優太の意思と呼べるものは存在しない。優太が監督しているにもかかわらず、彼の「こういう映画を作りたい」という意思はどこにもないのだ。結局のところ、彼は絵梨の撮影を通して、自身の成長というものができなかった。だから絵梨のドキュメンタリーを完成させて上映した後も、心からの満足を得られず、延々と再編集を続けるはめになってしまったのである。物語が続くのには理由がある。
この作品は二つの章に分けて考えることができる。終盤に絵梨が再び現れて、「この頃より随分老けたね」と主人公に声をかけるところが、章が切り替わるポイントである。ここまでは作品の視点が主人公の持つカメラだったのに、このコマからはそうでなくなる。だから優太の顔が頻繁にフレームインしてくる。また主人公と絵梨の対話の内容が、作品内の物語についての話というよりは、明らかにメタ的な内容に踏み込んでくる。
絵梨は言う。
これは映画というもの自体についての言及だろう。優れた映画は時代を越えて引き継がれていき、何度でも新しい人々に深い感動をもたらす。そういうことをここでは言っている。一ページ一コマで見開きを使って表現されているので、相当な力点が置かれていることが伝わってくる箇所だ。ここで作品が終わっても良さそうなものである。
だがこの場面もまた最後の反転を呼び寄せるための準備に過ぎない。絵梨は自身のドキュメンタリーを至高の価値として強調するが、ここでようやく主人公は自分のしてきた過ちに気がつく。絵梨はこう言う。「見る度に貴方に会える」。だがじつはそのドキュメンタリーにはほとんど自分は映っていないのだ。彼は絵梨のセリフをヒントにして次の段階へ歩を進める。
それが最後の見開きの爆破シーンである。ここに来てついに優太は「自分の意志」を表現することに成功する。相手の望みではなく、自分の望みに沿うことを遂げるのである。この場面により漫画は一気にシリアスな雰囲気から解き放たれ、ギャグ漫画的になる。それもまた優太による作品の作り替えだと捉えられる。そして彼は自死の念を振り払い、生きようと思う。何だか令和版の『金閣寺』のような話だな、という気がしなくもない。
以上の議論をもとにすると、最初のドキュメンタリーの爆破シーンは母親からの逃げであり、最後の爆破シーンは成長を遂げた男性の、自覚的な突き放しであると理解できる。
この作品は主人公の母親が強く、父親が弱い。絵梨もけっきょくは第二の母親に過ぎない。母性は、良く言えば温かくこちらを包み込んでくるもの、悪く言えば絡みついて内部に踏み入ってくるような執拗さがある。それは頑固な父性と違って、真正面からこちらにぶつかってこようとしないため、主人公は反抗というものができない。今自分の考えていることが、どこからが母親(またはヒロイン)の考えていることで、どこからが自分の考えていることなのかの分別ができないのだ。したがってそれを突き放そうとしたら、その力はおのずと自己破壊的な影を帯びざるを得ない。つまり、それが爆発ということなのである。