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泣いても笑っても

日付を跨いだけれど、一日3note目。これはちゃんとした、朝から晩までの日記のつもりで書く。昨日同様、今日も夕食の後にスコーンと寝てしまい、気付いた時にはナイター中継が終わっているし、横浜は連敗するし、夕飯を食べにくる地域猫を見はぐれる。早寝早起きをしようにもその前に力尽きてしまって、結局本番環境が細切れの眠りになるから身体がついていかない。往々にしてこういう時風呂を浴びようという体勢も作りづらくて、こういうところから自己無力感が醸成されるのだと感じる。自分自身をコントロールするのがこんなに大変だとは。

とか言ってたらこれ書いている間に猫がきた。いつでも捕まえられそう。できれば足を洗ってからおいで。

不発弾

女性の住宅の庭からみつかったのは直径約10センチ、長さ約70センチの砲弾とみられ、50年前ほど前から自宅の庭の鳥小屋に置かれていて、約30年前に小屋を解体して以降も庭に放置していたということです。

仕事でとんでもない勘違いをしていたことが発覚し、青ざめている。どれだけ楽天家を装おうが、今まさに、新品の不発弾に気付いておろおろとうろたえていて、自分に火の粉が降りかかろうという場面では途端に悲観主義者が顔をのぞかせる。青くなろうが赤くなろうが事態はよくならないのでできる範囲のことをやるしかないが、間に合うのか?爆発したらどうなるんだろう……。

ここまで書いて自分向きの備忘として、この件は日記で追いかけることにしてみんなにも時限爆弾のカウントダウンを共有してもらおうか。死なばもろともよ。黒沢ともよガチアンチアカウント。

響け!ユーフォニアムの最終巻の後編を飛ばし読みした

アニメの結末が知りたくて――。響け!ユーフォニアムはアニメでしか追っていないが、今後の展開を知りたくて最終楽章・後編だけ買った。筋を確認するためだけなので読んだうちに入らないけれど、どうにも気になったのが黄前久美子の考える「正しさ」についてだった。

同級生や指導者に対してモヤモヤを抱えながら、黄前は繰り返し、相手にも正しさがあると一人称で語る。一方、黄前に肩入れする登場人物たちは、彼女が「正しい」とする人々に対して時に痛烈なまでの批判を浴びせる。作者自身が、黄前の「正しい」という認識に懐疑的な証拠だ。

黄前はこうした援護射撃には直接は与せず(久美子だけに)(?)、自分自身のアプローチで同級生に対峙し、自分の手札では相手の価値観を揺さぶれないことを知る。けれど、暖簾に腕押しとも言えるその状況は、他の部員たちの声が刺さらない黄前自身も同様だ。聞く耳を持たない彼女には、彼女の視点を転換させうるだろう一言一言が、単なる情報として処理するものとなり果てている。

作中で黄前は現実的な問題解決のために助言を請い、それによって腹をくくる。そして、読者からすれば決して正しいとは思えない、物語の主役としてふさわしい態度とは言い切れない姿勢で結末へ突き進む。黄前の内心の変化は場当たり的で、しかも章の外で示唆される、彼女が大人に至るまでの空白の時間は本編の期間よりずっとずっと長いのだ。

最終巻だけ読んだわたくしの手触りは、このシリーズそのものがアンチ・ビルドゥングスロマンというか、高校の部活は人間形成の場ではなく生存のフィールドで礼節を知る余裕なんてないと突き放すような作品というものだった。それは現実のエッセンスを忠実に取り入れているとも言えるけれど、総勢100名以上の部活動を描く中でここまで他者との噛み合わなさ、高校生・青春時代の無力さを描き続ける作者の底意地の悪さの方をより強く感じた。

キャビネットを九十度動かした

パソコンデスクの真裏に引き出しがくるレイアウトで開けづらいなあと思いながら数年過ごしてきた。ふと、単純にキャビネットを横に回せば解決することに気付いて、そうした。どうしてこうしなかったんだろう……。

ユーモア欠乏症

三つ続きで日記を書いていれば、この一連のテキストの単調さに書いている当人こそほとほと嫌気が差す。とにかくユーモアやシャレがnoteの文体から欠落している。文字通りのっぺりとした文章は無表情かうつむいていて、気の抜けた顔を見せてくれないのだ。これがうつ病の「ものごとを楽しめない」に当てはまるとしたら、病状は小康状態どころか悪化の一途を辿っているのやもしれない。肩の力を抜いてリラックス、それができていたら、今頃は。

違う、これでは欠乏症の再生産にしかならない。とにかく仕事や財布がヤバくても、体がついていかなくても、積読を読み、まだ見ていない映画を視、ラジオで声優の声を聴き、自分の時間は自分で守ってやろうと、そういう明るい前向きで破滅的な宣言がしたかったんだ。


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