きりちゃん。

考えてもしょうがないこと、
答えの知りようもないことなんだけど、

きりちゃんがリンパ腫で亡くなってしまったことについて、

「わたしの悪いものを全部引き受けてくれたんじゃないか」

とか考えてしまって、
彼女がリンパ腫に罹ってしまったのも、そうしてまだ若くで亡くなってしまったのも、わたしのせいなんじゃないか、なんて思ってしまって、、

ああこれはよくない癖です。
なんでもかんでも自分のせいにしてしまうところ。悪いことの原因を、責任を、全て自分にあると思ってしまうところ。

そんなわたしの悪い癖に気づかせるよう、
きりちゃんが身体を張って、命を賭して、
教えてくれたのかな、なんて、考えてしまいます。

きっときりちゃんは、間違いなく、わたしを幸せにする為に出会ってくれたんだ😭

それだけは間違いない、と感じています。

だから、出会わなきゃよかった、
一緒に暮らす選択をしなきゃよかった、
なんて風には考えません。

いっぱいいっぱい優しい思い出をくれたから。
たくさんのあったかい思いと記憶をくれたから。

わたしが本当はどう生きたいかとかなりたいかとか、何が心地よくて何が居心地悪いかとか、
あらゆることを教えてくれたんです。

だから、だからこそ、報いたかった。

報いたい、と、思っています。

彼女が命を懸けて教えてくれたこと、
見せてくれた姿、

「もっと楽に生きてもいいんだよ」
「自然体でいてもいいんだよ」
「嫌なことには嫌だって示していいんだよ」
「心地よい場所を選んで生きていいんだよ」

😭😭😭😭😭

わたしが上手く生きれなかったことを
彼女は全く責めなくて、嗤(わら)わなくて。

そっとやさしく導いてくれました。

彼女が亡くなってから、
物凄く悲しくもあるし、
胸が辛くなったりもするんだけど、
うん、やっぱり、
わたしを痛めつける何かを、彼女が持ってってくれたのかも知れない」と思ったりします😭

そんで、これを書きながらやっぱり、
もう以前のわたしには戻れない、戻らないようにもしてくれたんだなとも感じています。

わたしの周りを覆う「濃い霧」を払ってくれた。

きりちゃんが持ち去ってくれた。

彼女はそんな風には思っていないかも知れない。
ただ生きて、わたしの側にいて、心配したりご飯をせびったり、静かに己を蝕む病と闘いながら、その猫生を全うしただけかも知れない。

だけどわたし、わたしにとっては、すごく大きな役割を担ってくれて、果たしてくれて。

きりちゃんがこの世を去ってしまったこと、
我が家からいなくなってしまったこと、
悲しいと思っても、
寂しいと感じても、
それでもやっぱり最終的には自然と、

「ありがとう」って思うんです。
そこに着地してしまうんです。

わたしをこういう風に変えてくれたのは彼女だと思っています。

小さな小さな命だったけど。
たくさんの人と交流したわけではないけれど、
わたしにとって、物凄く大きな存在でした。

だからやっぱり、彼女の与えてくれた時間、優しさ、猫生に報いるように、わたしはもっと生きていたいです。

今のわたしがあるのはきりちゃんのおかげだって思いながら🥺

大事に大事に生きていたいです。


やっぱり何度も同じこと言っちゃうし書いちゃうけれど、 

きりちゃん、生まれてきてくれてありがとう。
うちに来てくれてありがとう。
わたしと出会ってくれてありがとう。
最高の飼い主ではなかったかも知れないけれど、側で見守ってくれてありがとう。
かわいい姿をたくさん見せて、癒してくれてありがとう。
大好きにさせてくれてありがとう。

これからもずっと、ずっとずーっと大好きです。

りずむは頑張って生きます。

きりちゃんが教えてくれたことを胸に、
優しい思い出を胸に。
どうしようもない飼い主を、
生きる方へ背中を押してくれてありがとう。

ちゃんと、ちゃんと生きますね。

「わたしは大役を果たした」って、向こうで得意げにしていてください。
神様にもたくさん褒められてください。

肉体から離れて、自由で健やかな魂のみになって、きりちゃんが未来永劫幸せでありますように、祈っています。🥺


りずむ

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