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3.無の波長と合う時に開かれるもの

おそらく、多くの人が手に入れたいもの。
でも、それを悟りと呼ぶのは本当は全く違う。

悟りがエネルギー的にわかるような経験をし、それを理解したこと

それを人々は「悟りを開く」と表現しているにすぎない。


日常生活中に、ふと(というよりと突然雷に打たれたように)訪れた「無」で限りなく広がる何か。
それに名前がついていないので、「何か」と表現するしかなくて。

絶対的な安心感と圧倒的なパワーで、目の前が開けていくような。
ディズニーランドのスターツアーズ(今もあるのかな?)のライトスピードに強力な安心感が加わった感じ。
その経験が4回ほどある。

でも今となれば、それは「経験」ではなくて、常にそうであることが「わかる」。わかるというのも正しい表現ではないけど、そう書くしかない。


それが起きたのは、究極的な愛を経験した時、絶望を感じていた時、何も考えずに無=芯からリラックスしている時だった。
瞑想などはしていない。
そうなろうと思っていたわけでもない。

ただ、自然に起きた。


エネルギー的に、究極の愛と究極の絶望と無。これは同じ周波数だということ。
ポイントは「極」だ。

そして、無なのだから、本当に形になる愛も絶望もないということ。
残念だけれど、本当の愛はこの3次元には存在しない。
本当の絶望は無になり、本当の愛は無でしか表現できない。


誰にでも平等に
無制限の愛 が今広がっている。
それだけなのだろう。

その経験を自慢したいのではない。
みんなその経験を今まさにしていることを知ってほしくて、書いている。


その経験から後付けで理解できたものは、
世の中のものはすべて自分であること、自分以外の世界は存在していないということ。
無制限の愛しかないのだから、誰でも存在そのものが無制限の愛なのだ。


たくさんの人がいて、たくさんの世界をそれぞれ生きている。
パラレルワールドだらけ。
もし、あなたの頭の中で「将来、~になりたい」と思い浮かんだとしたら、それはエネルギーとしてどこかに既に存在していることになる。
だけど、エネルギーが増幅しない限り現れてはこない。

そのパラレルワールドを、多くの人間の共通の規則や基準、一般論を作ること自体がそもそもはムリがある。
でも既成概念こそが当たり前になっている私たちは、その中にどっぷりと浸かっていてそれが真実だと思い込んでいて、そうやって生きている。

それが創り出している世界だから。

次々湧き起こるエネルギー。
それこそが自分。

だからその場その場で、自分の世界は瞬時に変わる。
目の前に見えるものが変わるのも、自分が移動しているからだし(当たり前)、何かしようと思ったから何かが起きるわけだし、電車で~に行こうと思えば、脳の記憶装置から目的地に行く方法を瞬時に呼び起こし、瞬時にそれを実行している。

すべて「瞬時」にできあがる。

思うように現実がならないのは、疑いのエネルギーと時間という概念があるから。向かいたい方向と逆のエネルギーを発出しているから。

自分が持つパワー(エネルギー)がこの世界(現実)を創り出している。
エネルギーの増幅加減で現実が形づくられる。

それを人は一瞬一瞬している。

その時々の判断や選択、時間の経過が当たり前だと思っているので、自分で~をした、しているというストーリーになる。

ストーリーになるのは、時間という概念があるから。

実際は「エネルギーの瞬間的爆発」で現実が起きている。


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