九月はだってまだ暑いから

静雄が由利香に出会ったのは、伊豆の浄蓮の滝でのことだった。街では五月蝿い蝉の声もせず、ただ滝の流れる音が響いていた。暑い日のことだった。
 そこでどんな会話を交わしたのか静雄は覚えていなかったが、もう少し涼しくなったらまた会いましょうと連絡先を交換したことは覚えていた。連絡先を交換してからなにか話したという訳ではなく、履歴にはよろしくの挨拶だけが残っていた。
 もうすぐ九月になる。そろそろ何か連絡をした方が良いだろうか。静雄は畳敷きの部屋で寝転がって考える。窓の外をチラッと覗くと、建物の影から夏の雲が風に飛ばされていた。そういえば台風の季節かと彼は思った。起き上がってテレビをつける。台風のニュースはやっていないだろうかといくつか番組を探したが、昼下がりのワイドショーはタレントの浮気について熱弁していた。台風のニュースもそのうちやるだろうとは思ったが、このままやかましいテレビと生活するつもりにもなれず、静雄はテレビを黙らせた。
 静かになった部屋の中でもう一度横になると、浄蓮の滝の音を思い出した。気がつくと由利香さんと口に出していたことに気がつくと、静雄は赤面した。こうしていても仕方がない。彼は気分転換に出掛けることにした。
 自転車に乗って街を走る。まだ少し汗ばむ陽射しだが、蝉の声は八月よりも小さくなったし、トンボの色も赤くなりつつあった。もう少し涼しくなったら……
 静雄は特にどこに行くというあても無かったが、自転車は気がつけば街の中心部に彼を運んでいた。屋根付きの商店街を通り抜けた先に図書館がある。
 図書館の中は随分とひんやりとしていた。木目調の館内装飾はその冷たさをより強めていた。気がつくと静雄は恋愛指南書のようなものを探していた。彼はそれを探しながらも、どこかでそろそろ会いませんかとメッセージを送れば事足りると知っていたが、きっと誰かに肯定されたかったのだろう。しかし図書館というところは格式ばったところで、静雄の求めているものは見つけることが出来なかった。
 結局三十分もしたところで静雄は図書館を後にした。そろそろ小学校も放課後になるのか、街中にはランドセルを背負った子供たちがチラホラと笑い声を上げていた。
 家とは反対の方向に自転車を進める。緩い坂道を進んでいく。しばらくすると傾斜がきつくなって、静雄は立ち漕ぎをしながら登っていった。再び道の斜面が平らになった時、すっかり息が上がっていたが、後ろ振り返って街を見下ろしたらどうでも良くなった。
 静雄は煙草を取り出した。火をつける。煙が街に重なって、トンボがすっと横切った。空の半分には綿雲が残っているが、太陽の方には羊雲が赤く染まっている。煙草が短くなっていく。夏も終わりだ。静雄はようやく決心がついた。携帯電話を取り出してパチパチと端末を弾く。一通りの作業を終えて、それをしまうと、静雄は一気に坂を駆け下りた。
 夜、携帯電話を開いたら、由利香から返信があった。そこにはこう書かれていた。まだ早いかな、九月はだってまだ暑いから。

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