魔王

春に違いなかった
まだ目覚める前の
ずっと霧の中だった
くちびるを結んだままの

気怠い午後だった
体ごと宙に漂ってしまいそうな

欲しないおまけのような六時限目
いつも草臥れた背中の先生
シューベルト ドイツリート
荒っぽい黒板の字
昨日の雨で汚れた窓
ぼてりと寝そべった江の島
空の重さに波が唸る
針を落とした先生が振り向く
その時 劈いたフィッシャーディスカウ

わたしは指ひとつ動かせずに
誰にも気づかれないように
息を止めながら嵐に巻かれた

先生 あなたはきっと
ひとつずつ何かを諦めながら此処まで来たんだね
数多の中から このたった一曲を選んで
わたしにとどめを刺すために


江の島は今日も変わらず
波間でうたた寝を繰り返す
あの日 突然連れ去られたわたしは
いまだ息絶えておらず
喉の奥で 先生あなたのなまえを叫びながら
誰かの魔王になれる日を
ゆめみている



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