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昨日までの世界脱ぎ捨てて見据えた思考は感情で撮る写真。意思を持って発する私たちの声が存在意義と形を変えて残像となってときめく

将来やりたいことはたくさんある。
例えば時計の秒針音に左右されず
歩き慣れてる道を遠回りして探求するだとか、
意思を持って発する私たちの声が
世界の端っこまで届いたりしたらいいのにとか。
小さなことから大きなことまで、
これから...これから先
成し遂げたい楽しみな目標はいくつもあるんだ。

ただ、不確かな未来を思うことに
時々恐怖を感じることがあるから
それらに対して今出来ることがあるのでならば、
行動もせずにやらないでそのままにしておけない。
もしかしたら明日には
この人間でいられる瞬間が終了しているかもしれない。
人間の次も人間として
この世に生を受けられるとは限らないのだから考える。
もしそうだとしたら
先ほど指折り数え掲げた夢は叶えることができないと。
「限界を信じて疑わない」「全て必ず終わりが来ます」
いつか必ず来る終わりは いつやってくるのかわからない。
だから存在しないかもしれないこれからに これから先に
思いを巡らせすぎることの行為は恐ろしい。
まだまだ何数年と鼓動を打ち続ける生命が隣り合わせで
まだ死にたくない。と思わせてくれるから。
その恐怖から少しでも逃れようとるために
確かな今や過去にすがりつきもがきあげる。
その時に私の中でなくてはならないものは
やはり“写真”なのだと思ったりもする...。
楽しかった幸せな出来事に思いを馳せる。
今現在の楽しいことの追求に捉われる瞬間で
忙しく過ぎる日々生活、写真と関わる時間も、
愛して、愛して、愛するほどに
日頃からコロコロコロコロ顔色を変えていく。
上がったり、下がったりの感情に
やり残したことへの後悔だったりなのか...、
叶えられたことへの達成感なのかの
そのあたりの全部、全てをひっくるめて
「今この瞬間が楽しいかどうか」という
物差しと共に過ごしてきたつもりだけど
それでもこの先もこの生き方でいいのかと
頭を抱えたまま眠りにつく夜がある。
完全に逃れることのできない死という恐怖とは
いったいどのように向き合っていけばいい。?
大事なものに向かう気持ちの方向、
向かうべき方向、
自分が行く先をわかっていたいのと同じように
もしかしたらこれは生きていく上での
永遠の課題なのかもしれないと24年生きてきて
ようやく気づき上げた今の私に落胆する。

写真は意思を持って発する私たちの声が
存在意義と形を変えて残像になる瞬間だと
そんな風に思いながら撮っている。

大切な人や、ものや時間。それらはいつしか失ってしまう。
まさに今私を含む人類が過ごしている
この時間、この瞬間、一寸先だったりって、
もしかしたらすんばらしいものではないかと予想している。
きっと今ってすんばらしい。
初めて何かを体験した時の初々しい感情。
なんの穢れも知らない純粋な心、
あとから振り返って気づくもう戻れないあの時、
私たちは日々気づかないうちに失っているものがたくさんある。
大切な人の有り難みとか、もちろん失って気づくものだってある。
どちらにしろ人間は失っていく生き物なんだと思う。
いつかは失うという避けられない当たり前のことって
存在意義に値する螢が光らせる灯火に重ねられると思うことがある。
「“ 光って消えるただそれだけと知りながら 光る僕は綺麗でしょう?“」
私は一人で出来ることの範囲が限られているからこその歯痒さを知ってる。
それに怯える自分が存在することが、私が写真を撮る理由の一つでもある。
“今“という瞬間は目の前にあって
その瞬間に心がときめいた物事を見た瞬間の感情を大切にしたいと思う行動から
私はシャッターを切る。誰かのためであるのかもしれないし。
だけど一番は自分のために撮っている。

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人生を編集しよう。
編集された人生を 自分に信じ込ませるんだ
もっと細部まで編集しよう
人生は素晴らしい。

写真に残す手段はいくつも数多く存在する。
常に身近にあるスマホや、デジタル一眼レフなど、
使い勝手の良い上に効率的な機材がある。
それにほんの少し手を加えて人と違う残し方を模索する。
上辺のない人情味が溢れた真っ直ぐな言葉を付け足して
存在意義として形を変えて残していこうじゃないかのお。
私があえて人間にしか紡ぎ出せない真っ直ぐな言葉の数々に
こだわるのには胸を張って言える明確な理由がある。
カメラ機材でいうフィルムや、アナログは、デジタルと違って
(簡単には)消すことができないように言葉も同じと思うから
これが一番の理由である。
パソコンで書いた言葉文章はワンクリックで一瞬にして消すことができる。
しかし脳裏で思いを口に出して発した言葉や思いを消すには
パソコンと違って多くの労力と時間を要するからこそ簡単には消えないんだ。
消せないからこそある安心感のようなものが心の奥底にある。
人と相対して言葉を交わす際に間違いを誤ったとしたとしても、
言葉の明確な意味を知らずで足りてないから
関係性をつくっていくことに不器用だから
人間味帯びていて良いのではないんじゃなかろうかと思うんだ。
デジタルやロボットのように機械的に
編集された世界に生きていくことはとてもじゃないけど息苦しい。
でも私たち人間という素晴らしい類は
意思を持って言葉を発せたり、思うことに感情をつけ表現ができる。
きっとなんとなくの観てる方向、なんとも言えぬアンニュイなツボを
言葉だけでは表せなくなった思いに寄り添うような写真があれば良い。

私が生まれてくる前と 私が消えたあとと、
なんか違っててほしい 世界は違ってほしい

物にも情報にも溢れ、常にそれらの処理に追われる現代は
必然的に消費のスピードが速くなる。
そういった生活の中で、意思を持って発する私たちの声が
もたらしてくれる物ってのはなんなんだろうか。
それはきっと、
人と相対して触れ合ったときの気持ちいい、嬉しいなどの
言葉が響く感動のスイッチがもしかしたらどうも惹かれあって
奇跡的に同じあたりにあって共に得る幸福感なのかもしれない。
ピンと来なければ
一人になって絶対に青い空を芝生に寝っ転がって見上げ深呼吸だ。
ゆっくり呼吸をしてみることでぐわっと広がる世界が確かにある。
私たちは時には何も追いかけることなく、何にも追われることなく
自分のペースで一人のんびりと好きな言葉を耳に聴き入れる時間が
場合によっては必要なのかもしれない。
その時間の中で初めて自分と向き合うことができるのかもしれない、
と今の私はつくづく思ったんだ。
いつなのかはわからない人生の終わりを
とても遠いものだと思い込み、変わりない日々を過ごしていきながら
やるべきこともやりたいことも先延ばしする。
それで突如きた終わりを後悔まみれで受け入れる、
そんな人生を送るのも一理はありと思うが
なるべく後悔の少ない状況で受け入れられる方が良いと確信ついている。
結局のところ今一番思うことは
やるべきこともやりたいことも好きなタイミングで一つ一つこなして行き
後悔のない今を積み重ねていきたいということ。
とりあえず、未来に過度な期待も不安も抱かずに迷うことなく
今と向き合っていればいいのだと、そう思って信じていたい。

私がいなくても 地球は回るのに
地球がいないと 私は生きれない
私が決めるままに生きてきたんだから。


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