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銀河英雄伝説 感想②

はじめに

原作小説の第2巻までを読み、2021年3月4日から同年3月12日の期間に銀河英雄伝説OVA110話、OVA外伝シリーズ52話、劇場版『わが征くは星の大海』、『新たなる戦いの序曲』、長編作品『黄金の翼』を視聴した上での個人的な感想である。

元々ガンダムの宇宙世紀シリーズを好んで視聴しており、宇宙における戦闘や物理的な常識はこれを基に固定観念とばかりに構築されていると言っても過言ではない。

但し、数学や物理とは平行線の運命に生まれてきてしまったため、実際に何が尤もらしい事実であるかの判断は直感によるものともいえる。コロニーの設計は理論的に実用化が可能である、落下傘の実用化への試作が進むといったニュースを見るに、物理的な面においてはこの設定や直感を信用してもよいのではないか、と思うことにしている。

子供向けの娯楽としてではなく大人も愉しめるものとして、スペースオペラ、SFの日本における現在の確固たる地位を築くに大きく貢献した、と称される名作。一見、一読の価値はあった。(小説は読破しきれていないが)

しかし、余りにも長い。そして、これほど細切れに見ることに向かないアニメ作品も中々ないだろう。これぞ大河ドラマ、と言ったところか。そう思い一気見することを決意したが、週に一度の放送であれば3年以上の放送期間を要した作品を途中全く見ない日を2日ほど挟んで約7日間で見ようとするのは無謀であった。U-NEXTの無料体験期間にあわせての強行軍であり、興味がありこれから見ることにする人はもう少し余裕をもって見ることをお勧めする。

宇宙戦争系SFや戦争ドキュメンタリーを好んで見るものの、ミリオタではなく戦争そのものに対して魅入られているわけではない。むしろ、政治的な駆け引きや人物関係などをしっかり描写してくれるのであれば戦闘シーンはぶっちゃけなくてもよいとさえ思っている。加えて、人物名と顔を一致させること、年号や固有名詞を覚えることを諦めている節があるため、これほどまでに多くの名前を付けられているキャラが出てくる話において無駄に記憶のために時間を割くのではなく、純粋に物語の流れを楽しむことにした。

とまあ前提が長くなったが、今後本編を見るという人も居るであろうということを念頭に置き、物語の本筋においてあからさまなネタバレにならぬよう留意しつつ、感想を述べていきたいと思う。反論や突込みは随時受け付けている。

前回の途中まで視聴したタイミングでイラスト交じりに書いた感想は上記感想①に記載している。

▸言葉遣い

自身は読書家というわけではなく、巨匠とも呼ばれる文豪の作品は教科書の試験範囲に入ったものか、三島由紀夫の『美しい星』以外ほぼ読んだことがないと言っても過言ではない。

しかしながら言葉、特に文章として読み書きするものに対する拘りはそれなりに強い。また、自身の中での娯楽とするものに対しても、自身がそれを通して考えさせられ学び得るものがあるか、その中に美を感じるか、直感的に好きだと感じるかなど、ある程度基準を定めている。

そのおかげか、オタク気質である割に触れている作品はそんなに多くなく、また一般受けしているメジャーと言われる作品であったとしても好きではないものは触れないことになっている。(娯楽において自身を不愉快にする要素に自ら首を突っ込むなど、時間と精神をあえて摩耗させるようなことを好んでするような人はこのストレス社会においてそう多くはないと思うが)

そんな選り好みが激しい私が、何故戦闘シーンに対して特に興味を抱いているわけではない(とはいえ、画や映像として戦闘シーンの質が高ければ、手に汗握り楽しんでいるのは事実だ)のに宇宙戦争系SFを好んで見ているのか、という話である。それは、登場人物の『言葉遣い』が好き、この一点にある。

 1990年代前半までのアニメーション作品やアナウンサーの方々の言葉遣いは、その語彙だけでなく声や音の響きが現代のそれとは比べ物にならないほど品があるように感じるのだ。所謂女言葉と言われるような言い回しが多用されており、男女平等やジェンダーレス、ジェンダーフリーが謳われる中でそれを日常的に用いるべきであるとかそういうことを言うつもりはない。ただ、ルパン三世の不二子ちゃんに一度は手中で弄ばれたい、そう感じるように表現としてのそれが堪らなく好きなのだ。

軍事ものは戒律云々の設定により、てにをはが脱落するなど言葉遣いが崩れにくく、違和感を覚えることが少ないため、登場する語彙が実用的であるかは別として他の現代日常ものなどと比べて美しい言葉に触れることができるという点においてそもそもの基礎点が高い。

銀河英雄伝説は、この点において過去に自身が触れてきた作品の中からとび抜けている。貴族出身であるという設定を納得させられる、硬質で凛とした品のある声質のラインハルト様の精彩を放つ毒舌やアンネローゼ様の貴族特有の言い回しであるが彼女の優しさを感じさせる言い回し、キルヒアイスの敬語は何とも筆舌に尽くしがたい。

また、自由惑星同盟のヤン・ウェンリー率いる人員の程よく脱力し砕けているが、何とも言えない言葉選びも好みである。(キルヒアイスショックにより休止中の小説も、これらを糧に読み進めようとは思っている)

▸司令官か一戦闘構成員か

ガンダムと銀河英雄伝説の一番の違いは、戦闘における主人公たちの視点ではないかと思う。

ガンダムは、戦闘区域となってしまった居住区に住んでいた民間人が、望む望まざる関係なく戦闘に巻き込まれ、軍事機密を知ってしまったということで、その場で口封じのために殺されるか、軍所属となり戦うことでその罪を免除されるかの二択を迫られることから始まる。

いわば、本土決戦であり、人員不足を補うためにも軍事機密という首輪で民間人も動員してしまおうという、戦争としては末期も末期の状況から始まることが多いように思う。よって、ガンダムにおいては生きるための”目の前の戦闘”に焦点が当てられている。

それに比べ、銀河英雄伝説は徴兵制度はかなり厳格にあるものの、戦場に出て戦闘しているものは軍人に限り(民間船による物資補給は除く)、徴兵されたのちもそのまま実践に投入されるわけではなさそうである。(その点、帝国も同盟側も上手いこと線引きができる程度でしか戦闘を行っていない、という点で政府の上層部に幾ばくかの良心や理性が残っているのかもしれない)

軍を動かす司令官に焦点を当てて物語が進んでおり、目の前の戦闘も重要ではあるが、主人公らはその戦闘の政治的意義や戦闘全体を俯瞰的に把握し、利用ないし回避の道を取る、国や権利という”大局のための戦い”であろう。

個々人の操縦スキルによる華々しくも刹那的である戦闘シーンを描くための戦闘機と、国家や社会集団としての衝突を描くための艦隊戦。とても綺麗な対比であるが、戦闘シーンとしての”映え”は目的がそれである前者が勝る(異論は認める)。

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以下、気になったことで以前感想に書かなかった点を中心につらつらと書き連ねていきたいと思う。

▸重力

初めて銀河英雄伝説を十数話みた約3年前にはそれほど気になってはいなかった。しかしながら、この1週間ほどで全編を駆け抜けている中で、強く、強く感じる違和感。

なぜ、惑星に居ない航海中の宇宙船において皆がカップやグラスを用いて飲み物を飲み、地に足を付け、涙は頬を伝い、血溜まりが発生するのか。(ビームライフルやブラスターによる傷は、その熱により止血されてしまうのではないかという疑問はこの際置いておく)

私の中では星などが生じさせる引力のほかに、宇宙空間において重力というものは遠心力によって得られるものであり、無重力下では皆パックに入った飲み物を飲み、血や涙は球体の形をとって空中に飛散し、下手をすれば気道に入り窒息を起こすものだと思っていたものだから、戦艦内でワインやシャンパンをグラスで飲み、缶ビールをあけている姿は正気の沙汰とは思えなかったのだ。

本編110話のうち、100話を超えたところでようやくある仮説を思い立ち、外伝を見る中で確信を得た。

「なぜ、無重力下の宇宙空間において重力が存在しているのか」
ではなく、
「この世界において無重力が存在している範囲が限られている」
というのが正しいのではないか、と。

宇宙船の外での作業においては無重力表現が存在するが、それ以外では無重力は存在していない。人工物に囲まれている限り、重力は存在しているのである。
ハッチが閉じ、宇宙空間から隔絶された瞬間、重力は発生するのである。

やはり、人間は地に足を付けていなければ生きてはいけない、ということなのだろうか。

▸生態系

太陽系を出て、人類が生存可能な惑星を複数発見し、人口を爆発的に増加させ、戦闘において消費しているこの世界において、”重力”の次に頭をもたげるのがその星々の生態系である。

星により恒星との距離やその大きさ、また自転の速度も地球のそれとは異なるだろう。(星の大きさにより重力が異なるのであれば、手頃な条件が整っている惑星であったとしても地球と近い大きさのものかそれより小さいものでしか人類は生息できないように感じるが、独自に展開した前述の理論により人間が降り立った星=人間が地に足をつけた土地=程よい重力が存在する、ということとして飲み込むこととする)

作中の表現では帝国側も同盟側も同じ標準時を利用している。これは広大な宇宙空間においてのみ利用される標準時なのだろうか?

惑星によって自転スピードが異なり、また恒星によって程よく照らされているとしたら、惑星内でも時差は発生し、一日を24時間とできない星も存在するのではないだろうか?

人間の体内時計は25時間設定と言うが、そこから大きく離れるような星々において一年365日一日24時間に縛ることは可能なのだろうか?もしや、人間が降り立った惑星は全て自転スピードをコントロールし同調させることで事なきを得ているのだろうか?

また、人間が物資を運ぶときに宇宙船に紛れていた可能性が高い小動物や虫の類が繁栄するのは分からぬでもないが、植生やその他の中型・大型生物は存在しても可笑しくはないだろう。それぞれの惑星において敢えて環境の合わない地球産の食物を育てるよりも、そこにあるのであれば試しに固有の植物なり動物を食してみるというのは自然な流れであるような気がしてならない。

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▸宗教

銀河帝国、自由惑星同盟、フェザーンに次ぐ、というと語弊があるだろうか。すべての社会集団に巣食う虫ともいえる地球教。

人間が地球から宇宙に生活拠点を移し羽ばたき始めたころ、人類を生んだ惑星というただ一点において人類に対する地球の政治的優位を維持しようと宇宙民から搾取する体系を整えたものの、暴力による圧力に反抗した人々が太陽圏を捨て、結局地球に住む人間同士の核を用いた争いにより人口は激減し、本編中では1000万程度まで減少した(と言っていた気がする)。

かつて自身らの祖先が持っており、自身らが享受できたはずの権力と財産を取り戻すため、百数十年単位で宗教という形式をもって銀河を掌握することを目的とし、地球教は設立されたとされている。


まず、西暦2129年の地球統一政府樹立まで続いた90年紛争により、神も仏もない地獄絵図によって既存宗教の権威が決定的に損なわれ、キリスト教は完全に消滅した、とされている。数多ある宗教による統制が失われてしまったがために、地球の外に出た人間たちは秩序を失い、享楽にふけり、治安が悪化し、それを暴力によってではあるが制圧したことにより初代皇帝ルドルフが生まれた。


そう、地球の既存宗教がなくならないことには初代皇帝ルドルフの台頭を許すことはなく、物語の前提として必要不可欠である大きな出来事だったと言えるだろう。

しかし、これは完全に地球上での紛争であり、これより前に宇宙に居住地を移した人々の中では、権威が失墜したとはいえ自身らの中に持つ神を本当に捨てるに至ったのだろうか?

自身は信心深いわけでもなく、これといった宗教に傾倒しているわけではなく、日本古来の自然信仰、八百万の神々に都合の良い時だけに縋る身である。

その程度の人間ではあるが、宗教が人々を救い、道徳心や秩序をもたらすということは知っているつもりである。特に、宇宙に出る初期は苦労が絶えず、ワープ装置の開発により太陽系の外へ飛び出せるようになった時代において、居住できる惑星が存在する確信もなく、物資の補給ができるという確証もなくただ暗黒の宇宙を彷徨う上で、当てのない漠然とした約束のない将来に対する希望だけで人々は生き永らえられるだろうか?


実際、本編の帝国軍人が良く死後の世界として”ヴァルハラ”という概念を持ち出すが、ギリシア神話に起源をもつ概念であり、それが残っていることこそ既存宗教は完全に消滅していない証であり、人々が銀河系で生きる縁として神々は地球教という不確かな新興宗教の他にも確かに存在し得るように思えるのだ。


その”生きる縁”としての地球教であるが、物語において大きな役割を果たす宗教団体であるにもかかわらず、その本質にしか言及がなかった。

その教義とは?純粋に人類発祥の地としての母なる惑星を崇め、聖地巡礼とばかりに地球に足を運び貢物を教徒から受け取ることで地球に残存する勢力を養い、維持していたことは物語を見ているうえで明らかだ。作中では地球巡礼に赴く地球教とは殆どが貧困層で、シャトルを出したところであまり利がない、という発言があった通り、信者の平均的な社会的地位や収入はあまり高くないのであろう。

親兄弟や職を失った、また風評被害などにより元々住んでいた場所や集団を追われた人々は、帰る居場所を求め、それを利用する形で宗教団体は信者を増やすのは常套手段ともいえる。今回もそれに当てはまるのではないかと考えたが、帰属意識を利用するにせよ、やはり確固たる教義がなければ誰もついては来ない。


長々と書いたが、多くの人心を掴んだであろう宗教としての設定がほぼ表現されていないことが実に残念である。これでは麻薬により人々を強制労働させるただのテロリスト集団である。宗教団体という姿を取っているという設定なのであれば、他の政治的な描写がかなり綿密にされていたためにその部分がよりお粗末に感じてしまったため、もう少し設定に深みを持たせてほしいところ。


▸プロパガンダ

ドイツを強く意識しているような設定が多いこの作品の中で、少し物足りなさを勝手に感じてしまっている点がある。それは、演説における印象、である。

同盟側のヨブ・トリューニヒトは舞台俳優のような見た目とその演説により民衆による票を獲得し、大統領の地位に就いたという。

しかしながら、彼の演説の内容はさておき、演説において一文が長いこと、また口調の抑揚のなさが、本当に口が上手いだけでここまで登りつめたという設定に矛盾するように感じるのである。

かのヒトラーや小泉、ギレン・ザビの演説を思うと、まず結論、続いてそれに至る根拠を語呂良く感情を載せて何度も繰り返すことがプロパガンダを行う上で重要であると思っていたが、何一つ彼の演説の内容は頭に入ってこない。耳障りの良い言葉を並べているだけ、といった類の評価をヤン・ウェンリーらがしていたように思うが、耳障りの良い言葉であったかどうかさえ、私にはわからない始末である。

因みに、ジェシカ嬢の「貴方はどこにいます?」という言葉に始まる主張だが、EQ低めの私には混乱しか生じえなかった。

「政府の命により戦闘がおこり、幾万の兵が死んでいるその時、貴方はどこで何をしていらっしゃいましたか。」

「戦場を知らぬあなた方政治家に死にに行けと命令され、そして散っていった人々やそのご家族にたいして貴方はどのようにお受け止めか。」とか、そういう問いかけならもう少し答えやすかったように思うが、どこにいるか、とだけ問いかけ続けるのは少し短絡的というか何を問いかけたいのかが漠然としているように感じてしまう。

実際に政府に対して問うべきなのは、政治と軍事のあり方と戦争に対する考え方と今後の方針であり、どこにいるか、そこは反復してまで問いかけるべき内容だったのか。

それよりも、100年以上続く戦争で青年から壮年期の男性人口が激減しており、このままでは人口が減少の一途をたどってしまうこと、また社会システムを従来通りに維持できない状態に陥っていることへの対策を求めるべきではないのか。

百数十年軍事で対応し、硬直しているのであれば敵国の国主が交代した時点で他の戦略が取れないかを模索する良い機会のはず…

軍需産業で特に利益を得ている人間が上層部に居るのでなければ、勝つか負けるかはお互いの国の軍師の采配で決まる戦争の勝敗に支持率をかけるのはあまりに博打が過ぎるように感じる。

▸皇帝の寵愛

中国の後宮ものを複数視聴後に見たせいか、皇帝の寵愛を失っても他の貴族から嘲笑を受けるにしても食事や物品の供給などを絶たれるわけではなく、生存に影響を及ぼすようなことはなく貴族としてある程度の生活は無理なく送ることができている。

ベーネミュンデ侯爵夫人は皇帝の寵愛を失ったことにより、逆恨みとばかりにアンネローゼ様やラインハルト様に対して陰湿に暗躍していたが、そこまでして取り戻したいものなのか。そう思ってしまうのは権力だけを持つ老人に政治的な駒として意に添わぬ政略結婚(事実婚や愛人、といったところか)を実家の意向でさせられたことがないからかもしれない。

実家の繁栄が後宮内の権力闘争における重要な要素であり、実家に繁栄をもたらすには気まぐれな権力者の興味を引く必要がある。国中から美人が集められる状況において、自身の失われゆく若さゆえの美貌と実家からの圧力。

寵愛を受けているときには蛆虫のように湧くごまをする貴族共も、寵愛が一度失われればすぐさま用済みのごとく顔色伺いにくることもなく悪口を吐かれる。そう思えば、確かに耐え難いかもしれない。

▸バランス

アンネローゼ様は後宮に召し上げられた後、皇帝が崩御するまでの約10年という長きに渡り皇帝の寵愛を一身に受けた。

美しさのみならず、気立ての良さや聡明さなど、夢中にならない人の神経を疑うレベルでよくできた人である。

その中でも、下級貴族出身として蔑まれ疎まれても、政治や弟の出世などを皇帝にお願いすることもなく、子を生すこともなく、寵愛を受けているというただ一点を除いて後宮、王宮を大きく波立たせなかった非常にバランス感覚に優れているお方。実際は姉ではあるが、建国の母ともいえる存在。ラインハルトは言うまでもなく稀有な存在であるが、彼があそこまで強く燃え、光輝いたのはアンネローゼ様の存在なくしてはあり得なかったことだろう。

▸平成版

ここまで見たのだから、全て履修してしまおうか。そう思い立ち、9話まで視聴したが、解釈の不一致により完走は断念した。

24話とかなりコンパクトに収めている上、映像はかなり現代的な近未来演出であり、有名声優陣を惜しげなく起用しているため、一般的にはこちらの方が好まれるだろうな、とは思う。

以下、愚痴であるため2018年版以降を好まれている方は読み飛ばしていただきたい。


まず、主役級声優さんが存命中にとりあえず有名声優を後釜に添えるというやり方が元々好きではない。リメイクするなかで、続投させないのであればすべての人員を総入れ替えすべきだという過激派閥であるがゆえに、運昇さんが違う役に起用されていたのを知った時点で何とも言えない気持ちになる。

豪華声優陣を揃えたので、まあそりゃイケボですね、っといった感じで、キルヒアイスに関してはキャラ解釈が異なってしまっている時点でもうorz案件(死語)である。あの柔和で全てを受け止める包容力が人格的にも能力的にも尖ったラインハルトと仲良くなるうえで重要な要素であるのに、ただの盲信的な主従に成り下がってしまっている。(の割に腐女子ホイホイとばかりに身体の接触描写が誇張されているのが気に食わない。彼らの絆はアンネローゼ様によるお願いと、ラインハルト様の描く未来像によるものであるはずだろう…汚れのない真っ白なハンカチを純粋な好意といった体で泥まみれの靴で踏みにじられたような侮辱を味わわされたような気分になった)

台詞に関しては原作、OVAとそれほど(!)差異はない。しかし、私が気に入っていたラインハルトとアンネローゼ様の硬質な高貴さが損なわれてしまっているように感じる。

ラインハルトの座り方、佇まい、間の取り方などの一つ一つから香り立つような品格、というものは失われてしまったように感じる。

後、原作以下映像作品できちんと描かれていた、好戦的であり、自身の能力とそれを妬む敵を薙ぎ払ってきたという経験に基づく万能感による、自身が立てた作戦に対する無邪気ともいえる自信の根拠に対する解釈が異なるように感じる。発言に腹黒さを滲み出してしまっている点が気に食わぬ。宮野真守、根暗なのかな?帝位の簒奪が野心であることは間違いないが、それはただの前提である、という体は保ってほしいと思ってしまう。

ラインハルトは派手好きというわけではなく、その美貌によって禁欲的な軍服に身を包んでなお華やかに見える男である。野望の大きさに比べ軍での功績以外で自己顕示欲を示そうという質の人間ではなく、キルヒアイスやマリーンドルフ嬢がいなければ自身の生活においてはかなり無関心で質素な生活を好む人間であったはずである。皇帝より下賜されたという設定である母艦ではあるが、あのゴテゴテと下品に飾り付けられた座椅子が気に食わぬ…

アンネローゼ様は貴族なのだから、膝丈ワンピースはとてもお似合いで可愛らしいが、脚を他人に見せるなどはしたない行為なのでは?!?!(モンペ)

生理的に、敬礼で手のひらを見せたり手の甲を見せるのは受け付けない星に生まれたため、美しくない、と思うだけではなく身震いすら起こってしまう。一種のアレルギー反応で生まれ変わらない限り治りそうにない。

ビームライフルやブラスターは反動が殆どないってwikiに書いてあったけれど、この世界線では違うのかもしれない。

ファッションデザインもキャラデザも前の方が好き。そもそもこのキャラデザによって美貌を平均化してしまったことにより、アンネローゼ様とラインハルトの後光が差すような美しさと、ヤンの見た目の平凡さによる他者からの評価を誤らせる、という設定がすこしブレてしまう気がしている。


最後に

物理的な法則やそれらに伴う戦闘の不思議などに意識を持っていかれることしばしばであったが、この作品を通してこの感想を纏めるうえでも様々なことを考えさせられた。

やはり、一番心に残ったのは民主主義と独裁政権というテーマである。

ゆとり世代の寵児ともいえる自身は、未だに政治に対する関心は薄く、デモを見ていてもより効果的な方法があるのではないかなどど呟く程度の民度の低さである。

しかしながら、他者により手に入れられ、当然の権利として与えられているように感じている民主主義であるが、これは一市民それぞれが政治に関心を持ち参加するからこそ成立するものであり、現在は完全に民意を離れた民主主義ごっこと化している我が国の政治から目をそらしなかったことにするのではなく、能動的に参加することで国民が政府の暴走の抑止力とならなければならないのだなと感じさせられた。

まず出来ることは歴史を知ったうえで正しい情報を入手し、現状の把握に努めること、であるのは十数年自覚しているところであるが、実行に移すかというとそれはまた別問題なのである。


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