見出し画像

「自分は将来どうありたいのか?」について考える #内省録

何気なしにふと気になったテーマを取り上げ、自分の経験、思考、価値観と向き合いながら深堀りをしていくシリーズ。内省したものをこうして記録することで、

  • エンジニアとしての成長のロードマップ

  • 自分が取り組んでいる分野の動向の推察

  • 今後の活動に関する意思決定

のために役立てていこうというもの。要するに、思考・価値観の人間ドックである。

自分は2020年に大企業からベンチャーへと転職した。そのときに、徹底的に自己分析をやり込んでいたわけだが、その中で「自分は将来どうありたいか?」ということについて考え込んだことについて思い出してみる。

最初はなんとなくぼんやりと、

・「豊かでありたいなぁ」とか
・「充実した感じでいたいなぁ」とか

という感じではいたが、そこまで具体的な何かはなかった。これでは何も考えがまとまらないので、そこで発想を変えてみて、

自分にとって「豊かじゃない、充実していない」ってどういう状況なのかな?

を考えた。

2020年頃というのは、ちょうど働き方改革が騒がれだしてから少し時間がたったぐらいの時期で、

・「終身雇用を守っていくのは難しい」と言われだしたり(豊田章男社長の発言より)
・「老後2000万円問題」が騒がれだしたり、
・あらゆる企業で45歳で実質のリストラが行われだしたり

と、なかなかの波乱が日本で起こり始めたときだった(まぁ、海外の人から見れば「今更かよ!」って思われるかもしれないが)。

その一方で、「人生100年時代」と言われるようになり、どう考えても「老後の寿命」に対して「老後の資金」が足りねぇなというのが明らかになった。

そのため、年金受給開始年齢はどんどん上がっていっており、おじいちゃん・おばあちゃんになっても毎日仕事するのが当たり前になってくる。

こんな感じで、

・「未来がどうなるか?」を考えれば考えるほど不安な気持ちになって、
・「自己投資だ!」とか「スキルを磨け!」だとか言われてプレッシャーや焦りを感じるようになって、
・「やんなきゃいけないこと」に囲まれすぎて、何のために生きているのかわからなくなって、

という、なんだか希望が感じないような。そんなのが続くのが嫌だなぁと思って、たまに考え込んで疲れてしまうこともあった。

だから、そのために色々「備えよう」と考えるようになった。

そんな中、ふと安宅和人さんの動画をたまたまYouTubeで見たのだが、そのとき、非常に印象に残る言葉があった。

人工生命という研究があって、コンピュータ上で生命って、シミュレーションできるんですね。そこでやった進化のシミュレーションで僕らが知っていることっていうのは「同じ初期値であっても同じ条件下でも、同じ未来っていうのは絶対起こらない」ということなんです。毎回違うことが起こるんですね。だから「未来を予測できる」っていうのは間違っていて、科学的な結論じゃないんです。本当のところはですね、未来ってのは我々が「目指すこと」であるとか「創る」っていうのは意味があるんですが、「予測する」ということは本質的にはあんま意味がないんで、「目指して、創る」ぶん回す側の人っていうのは一人でも多く生まれるといいなと思っています。

Youtubeより

それまで「この先こんなことがあったらどうしよう」とか「将来困らないために、今のうちに〇〇しよう」みたいな発想でいた自分だったが、そうやって「未来を予測すること」は意味がないとズバっと言われたのは衝撃的だった。

もうこの動画を今まで50回ぐらいは見たのだが、繰り返し何度も見ていくうちに、「備える」んじゃなくて「目指して、創る」のが大事であって、そのために考えて行動しようと、だんだん思えるようになってきた。

「じゃあ、何を目指して創るのがいいんだろう」って考えたとき「自分はその時その時でやりたいことはコロコロ変わるけど、でもその時にやりたいと思ったことを夢中にやれるような、そんな未来を創りたいなぁ」と思った。

↓たまに読んでいる、安宅さんのブログ。めちゃくちゃ参考になる。

「じゃあ逆に、その時にやりたいと思ってもやれないってどんな状況なのかな」って考えると、そりゃ「お金がない」とか色々あるけれど、最も致命的なのは「健康だ」と思った。

今の自分は健康体だが、たぶんそれでも歳を取れば

・老眼で目が見えにくくなったり、
・膝や腰が痛くなったり、
・精神的とか認知的な疾患を抱えたり、

なんか出てくるんだろうなぁと思った。誰だって死ぬまでの間に何かしらの不調を抱えるんだろう。そして、不調が出た時にそれを治すのは主に「医療」の役割であるとは思うが、そうではなく、不調や障害の中でも豊かで充実した社会を実現しようと思うと、その役割の一部が「機械設計」なのかなぁと思った。

「世の中の全ての人のために・・・!」みたいな大義名分を掲げてしまうとかえって「やらなきゃ」感が強くなるし変なプレッシャーを感じてしまうのでそこまでは考えていない。

が、でもまずは自分のために、余裕があったら周りの人も豊かになれるように、機械設計を通じて目指していけたらなぁと思うようになった。

そう思ってからもう1年半ぐらいが経つのだが、今でもその考えは変わっていない。この考えになってから、仕事に対する考えも大きく変わったような気がする。

まず「企業の安定」とかっていうものの優先度が下がってきた。「全く必要としていない」わけではない。生活が苦しくなると困るのは間違いないが、優先度は低くなったなぁと感じる。なぜなら「企業の安定」と「豊かで充実した社会の実現」とは、そこまで関係がないから。最悪、転職や独立などしてもいい。

逆に、「新技術への取組み」とか「新製品の開発」とか「自身のスキルの向上」とかの優先度は上がった。なぜなら「豊かで充実した社会の実現」のための可能性が広がるから。

あと自分は、設計の仕事をする上で特定の製品に関する拘りは、周りの人ほどにはない。自分の周りに多いのは「自動車メーカに入って自動車を作るんだ!」とか「オレは◯◯のスペシャリストになる!」っていう人なのだが、自分の場合は「特に製品単位で絞り込むことなく、やれるものは何でもやってみたいなぁ」という感覚。たぶん、製品に拘りを持ったところで、ライフサイクルが短くなってきているから、自分が老人になった頃にそれが活用されているかどうかがわからないせいだと思う。

ただ、プロジェクトが長いものとか、業界や製品がめちゃくちゃニッチなのはあまり気が進まない。自分の中でスキルが拡張していく感じがないから。

もろもろ考えると、やはり今までやってきたようなFA機器の設計っていうのは、別名「なんでも屋」と言われるだけあって、自分には向いていたような気がする。

そんな感じで、自分の中の可能性が広がっていくことに楽しみを覚えている。まぁ、やりすぎ(というか、やられすぎ?)で身体をぶっ壊してしまったっていうのはあるが。

諸々のバランスは考えながらも、これからもこの業界に関わっていきたいなぁと思う。

ここから先は

0字

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?