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あるヨーギニーの自叙伝③すべて解体する

書くことが好きだった。文を書くことも、絵を描くことも。

両親は商売で忙しく、一人っ子だった私は、ひとり遊びするしかなかったのだろう、という推測である。なぜ推測かというと、あまり子供時代(10歳くらいまで)の記憶がないのである。どこかに旅行に行ったり、行事があったり、それはアルバムの中の写真から知った、という感じだ。

私は愛知県の名古屋市郊外で育った。私の本籍は東京都だった。両親は上京し仕事をしている中で、出会った。父は関東でお店を経営しており、商売の難しいと言われている名古屋で商売に挑戦したい、という理由で縁もゆかりもない名古屋に引っ越してきた。引っ越してきたと同時に私が産まれた、という流れのようだ。

こちらに引っ越してきた最初の家は、一階建ての小さな借家だった。家の中の家具や家電が緑色で統一されていた。母は緑色が好きだった。癒やしを求めていたのだろうか。

母は東京で喫茶店を開店したいという夢を持って頑張っていたようだ。しかし夢破れて、あきらめて結婚を選んだ、結婚して失敗した、とよく言っていた。名古屋市郊外の田舎に住むことになった母は、本当にこの生活が苦痛だったようだ。後にそんな話を何百回も聞かされることになる。「こんなところにいたくない、東京に帰りたい」そんな言葉を何度聞かされただろう。

結婚して長いこと、10年くらい子宝に恵まれなかったようだ。高齢出産で私を産むことになった。全く見知らぬ土地で、誰も親戚や友人がいない中での育児は孤独な戦いだったと思う。そして、父は新しく店を開店し、商売を軌道に乗せるのに必死だったことだろう。九州男児の父は家のことはすべて母任せ。そんな二人の歯車が狂い始めたのは私が産まれてすぐのことだった。

父がお酒を飲み始めた。それも歯止めがきかなくなった。詳しいことは分からないが、事業を一緒にやっていた仲間との別れとか。なにかのきっかけからお酒に溺れていった。まあ、お酒は依存物質なのだから、そのようになっていくだろう。お酒を飲んで暴れたりはしなかったようだ。しかし、私は何も覚えていない。この最初の家で過ごした6歳までの記憶はほとんどない。ただ、母に怒られて、しょっちゅう家をだされて鍵をかけられていて、家の前で泣いていたのは覚えている。とにかくヒステリックな母だった。いや、その状況ならヒステリックにもなるだろう。

外で泣いているととなりのクリスチャンの優しいおばあちゃんが助けてくれていた。ピンポンして「もう許してあげて」と。後に私が引っ越した後も私のことを本当の孫のように気にかけてくれていた。もちろん、母のことも気にかけてくれていた。私も本当におばあちゃんが好きだった。成人式の晴れ着を真っ先におばあちゃんに見せに行ったぐらいだ。その数年後におばあちゃんは亡くなった。いまでも思い出すとあったかい気持ちになる。その頃から私は誰かに助けられている。そんな人の縁に恵まれているのかもしれない。

なぜか今日、散歩していたら昔の家が見たくなった。実は昔は何年も近づけなかった場所でもあった。昔は見たくなかった。最近は、たまに散歩がてら見に行っていたんだけど、今日見たら、更地になっていた。ええっ?と一瞬びっくりしたが、新しく家を建てるようだ。

さみしさは全くなかった。なんだか、どこかリセットされたような、不思議な気持ちになった。その場にあったネガティブなものも全部ぶち壊されたような。

自分を見つめ続けてきた20代30代。それは家の解体のようだと思っていたことがある。私の心、というものを家に例えるならば、それを一度ぶち壊して、そのバラバラになった部品を眺めていくような作業だった。「私」と思い込んでいたものは様々な価値観の集合体でしかなかったということだ。もっというならばその「家」を自分だと錯覚してそのボロボロの家を嫌いだとか嫌だとか言ったり、誰かと比べて落ち込んだり、そんなことばかりしていたのだ。

「YOGA」は私に問いかける。「私」とは何か?という問いだ。私は体ではない、心でもない。苦しみを作っているのは他でもない「私の心」なのだと。

さあ、そんな幼少期を過ごした「私の心」を支配したのは何か?想像するのは簡単だろう。間違っても子供らしいポジティブな喜びにあふれているはずもない。「罪悪感」と「自己否定」で満タンだった。




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