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ウマ娘のウオッカとダイワスカーレットに見た、ジェンダーと価値観のぶつかり合いの先にある希望

はじめに

古からのウマ娘ファンの皆様におかれましては、この世の春を謳歌していらっしゃることと思います。
かくいう私もアニメ1期でドハマりし、原作(リアル競馬)沼にも浸かり、アプリの度重なる延期を諦めの境地で、昨年まではやり過ごしてきました。
そこに訪れたアニメ2期の放映とアプリリリース日正式決定の報。
より原作へのリスペクトを増した物語に毎週泣かされ続け、ようやくリリースされたアプリの出来に感激し、これがメディアミックスだと言わんばかりのコラボレーションでトドメを刺され、今なおトレーナー業に勤しむ日々を過ごしています。

昔から競馬好きには、文筆家が多い印象があります。自身の愛した人馬、思い入れのあるレースについて、読ませる名文を書き上げる方が非常に多い。
そのエッセンスはウマ娘ファンにも伝染しているかのようで、時折集団幻覚や怪文書のような呈を表することもありますが、皆さん自分たちなりの愛を歌い上げており、私のタイムラインを流れてくるそれを楽しんでおります。なんとありがたい。
これなら私が何か書くまでもないな……と思っていたのですが、強烈な示唆を受けたシナリオと出会い、恐らくこういった切り口で書かれた文章はないであろうと思ったので、筆を執ることにしました。

この記事には、アプリ版ウマ娘のウオッカ・ダイワスカーレットの育成シナリオ・キャラクターストーリーのネタバレを含みます。
また、自分なりの解釈によるジェンダー論に関する言及があります。
以上2点をご承知置きの上、お読みいただけますと幸甚です。

ウオッカ・その偉業の意義

アプリで各キャラを主役としたシナリオが展開されると知った時、一つの疑問が生まれました。

「ウオッカが牝馬でダービーを制した、という偉業の意義をどう描くのか?」

ウマ娘は牡牝関係なく女性化されており、ゲームのシステム的にも「牝馬限定戦」は存在しません。牡馬クラシック三冠をもとにした「三冠路線」に向かうか、牝馬三冠をもとにした「ティアラ路線」に進むかは、(モデルとなった史実馬の性別に沿って)何となくそのウマ娘が最初に選んだレースにより、どちらの路線に進むかが決まるというようなフワッとしたものになっています。

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ウオッカの場合は、ライバルのダイワスカーレットが走る桜花賞へともに出走したものの、自分が信じる「カッコ良さ」を貫くために、その路線を踏み越えてダービーに出走する……という描き方になっています。
最初は「まぁ、若干苦しいけど落とし所としてはこんなものか」という感想でした。しかし、ダイワスカーレットの育成シナリオやウオッカのキャラクターストーリーと照らし合わせると、ここで描いているテーマは「ジェンダーステレオタイプの自由な選択」という、まさに現代社会で私たちが直面している問題に対する、虚構の中での理想像なのではないか?と思うに至ったのです。

ウオッカのキャラクターストーリーで、こんなセリフが出てきます。

「……俺にとって"カッコいい"のは父ちゃんで、"強い"のは母ちゃんなんだよな」

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これが実に名言で、この一言でウマ娘におけるウオッカというキャラクターの立ち位置を端的に示しています。母親の強さと父親の格好良さ、彼女にとってこれらは択一軸ではなく、並び立つ物として存在しているわけです。

ウマ娘世界においても、ジェンダーにまつわる諸問題はきっと存在するのでしょう。「一度路線を選んだのなら、それを進むのが当然」という圧力が描かれていることが、それを示唆しています。
それに対してウオッカは、母の強さも父の格好良さも自己の中に両立できているがゆえに、自分の思うがままの選択をして結果を残します。
口だけで終わるのはダサく、結果を伴わねばならないという覚悟は、ウマ娘世界の皆に共通するスピリットであり、ウオッカは育成目標の序盤でそれが試されるわけですね。
(1着でなくても話は進められますが、いまいち締まらないので何としてでも勝ちたい一戦です)

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ダイワスカーレット・揺れ動く価値観

一方で、ウオッカをライバルとして意識しつつも、自身はティアラ路線を選択するのがダイワスカーレットです。
ダイワスカーレットというキャラクターは、常に一番であり続けようとすることが原動力になっています。そこには、当然他者からの期待や評価に応えるということも含まれており、一度ティアラ路線を駆けだしたのであれば、そのまま突き進んで勝つことが、彼女に取っての至上命題であったことでしょう。

この価値観を大きく揺るがしたのが、ダービーを選択したウオッカです。
同じ価値基準で戦ってきたと思っていた相手が、それを否定・破壊するような行動を取ったに違いありません。


ダービーを選ぶにあたり、ウオッカにも葛藤があった訳ですが、ダイワスカーレットはまだそのことを知らないし、その選択の意図がすぐには理解できません。史実でのダイワスカーレットはオークスにも出走できなかったことを受けてか、ゲームではオークスとダービーどちらを選ぶかを選択できるifが提示されますが、どちらを選んでもダイワスカーレットはウオッカの見せたカッコ良さに打ちのめされるのです。

そして2人はお互いに問います。

「お前の"1番"ってなんなんだよ」
「あんたの"カッコいい"ってなんなのよ」

この問いにお互いが迷い、答えを出し、やがて来る対決の時にぶつかるわけです。それは異なる価値観のぶつかり合いですが、ウマ娘世界のレースはそれをも受け止められるだけの度量があります。
お互いの価値観を否定することなく、覚悟や信念をもった選択であること認めた上で、純粋に強さ・速さを競う。だからこそ、その走る姿に我々は心を打たれるのではないでしょうか。

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ウオッカとダイワスカーレット、史実では疑う余地のない名牝であり、終生のライバルであった2頭ですが、ウマ娘のシナリオにおいては、ジェンダーギャップを飛び越えていく者と、ジェンダーロールを全うしようとする者、そのどちらもが尊く美しいことを描いた、表裏一体の関係性を持つ物語であるように読み取れたのです。

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私たちがコンテンツから受け取れるもの

価値観のぶつかり合いは、今日も至る所で起きています。
特にジェンダーにまつわる諸問題が語られる時、既存のジェンダーステレオタイプを強制されることを忌避するあまりに、「男らしさ」「女らしさ」といったもの自体が悪である、と糾弾するような意見もしばしば見受けられます。
もしそういう排斥が進んでいったら、その先には何があるでしょうか?全員性差を持たない、雌雄同体の生き物になるべきなのでしょうか?私にはそうは思えません。
「男らしさ」も「女らしさ」も人類が築いてきた文化の1つであり、そこから外れる自由もあってしかるべきですが、ジェンダーがもたらしてくれるものと共存共栄があってこその文化、人間らしさ、生物らしさではないかと思っています。

ウマ娘のウオッカとダイワスカーレットは、ジェンダーに対する向き合い方の理想形を示すキャラクターとして造形されたのではないか。
そんな気がしてなりません。

この2人の描き方に限らず、ウマ娘のシナリオは細部に至るまで競馬に対する愛とリスペクトに溢れており、そのクオリティコントロールのレベルの高さには感嘆するばかりです。
さらに、全員が年頃の女の子であるということに対するカウンターなのか、その設定を活かしたテーマとして、ジェンダーロールのあり方や生き様についても、深く掘り下げる試みがなされているのではないか、という視点を持つと、単なるエンターテインメント以上の輝きが、プレイする人の心に残るのではないでしょうか。

様々な困難が立ちはだかる世の中ですが、こういったコンテンツから読み取れるメッセージを支えにして、前を向いて進んでいく力に変えていければ、などということを願いつつ、このテキストを締めたいと思います。

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・本稿で使用した画像はゲーム・アニメからの引用であり、著作権はすべてCygames様に帰属します

・本稿の内容は、私の友人との議論によってブラッシュアップされたものを含みます



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