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京都魔界めぐり その3 幸神社・京都御所・北野天満宮

叡山電鉄の終点、出町柳で降りると川が。当日は不思議なことに気づかなかったのですが、地図を見るとここはデルタ地帯なんですね。高野川と賀茂川が合流して鴨川に。

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ここの橋を渡っている時です。橋の灯火の上にはとんびらしき大きな鳥がいました。

橋の上に鎮座するとんび(こんな写真を撮っていた)

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随分大きな鳥だなねーなどと言っていたのですが、しばらくすると、飛んで行ったのでそれを見ていたら。河川敷にいる人々の頭を掠めて飛んでいきました。。。怖い。
こんなところから獲物を狙ってるんだ。(何が獲物かわからないけど)

別の場所での出来事ですが、友人は手に持っていたパンをとんびに拐われたことがあると言ってました。人間はとんびに見られているんですね。恐るべしとんび。。。魔界より現実の方が怖いです。


その後、商店街を抜け、住宅街を通り、幸神社(さいのがみのやしろ)へ。なぜわざわざここに来たのか謎だった(聞いてなかった)のですが、ここは猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)が主祭神の神社。
神代に始まり、天武天皇の時代(661年)に再建され、さらに平安京創建時に桓武天皇により立派に造営されました。今はこじんまりしていますが、当時は広大だったそうです。

こちらの猿田彦大神は縁結びに霊験あらたかだそうです。
それから石神「おせきさん」。社殿ができる前からあるご神石。

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触るとまずいそうです。神石ですから。何十年か前に見た「ゲゲゲの鬼太郎」でも怖いエピソードがありました。一応触れないようになってました。

そして、本殿の北東角にいるのは烏帽子をかぶり、御幣を担ぐ猿
この猿は鬼門封じの為にいます。魔界関係です。

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鬼門とは陰陽道において鬼が出入りするとして忌む方角(北東)。幸神社から10分ほどの京都御苑内の猿が辻にも同じような猿がいますが、御所の猿が辻も御所の東北の角=鬼門にあたります。

猿が辻(京都御所内)

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うーん。暗くて見辛い。

ところでなんで猿なんでしょう?
猿は比叡山延暦寺の地主神の日枝神社の使いで、夜になると歩き回ってはいたずらをするので金網に閉じ込められました。その後「災いが去る(猿)」に転化しました。

なお、この猿、京都御所猿が辻-幸神社-赤山禅院-延暦寺山麓・日枝神社と都から東北の鬼門ラインを四匹の猿がそれぞれ現在も見守る「猿ライン」

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猿が辻の塀の角がかけているのも「鬼門除け」なのだとか。

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ちなみに、平安京遷都の頃の内裏の位置は現在では西に約2キロ平行に移っています。なので方角は変わらないのですね。

大雑把な平安京をその2で載せましたが、平安京と現在をGoogle Mapに重ねるとこうなるそうです。これ作った方すごいなあ。
http://rekishi.maboroshi.biz/heian/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%ACgooglemap/

平安京の右上の一角が現在の京都御所。当初の平安京からするとかなり端っこにいきましたが、鴨川の水を引くにはこの位置が良く、この頃には水害にも対処できたのか?

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現在の京都御所は内裏の何度目かの焼失の際に天皇の仮住まいとなった里内裏の東洞院土御門殿(ひがしのとういんつちみかど)に由来します。
南北朝時代の1331年、光厳天皇がここで即位して以降こちらが内裏=御所となりました。(光厳天皇は北朝初代天皇で歴代天皇126代には含まれない)

京都御所(御苑)は広く、緑も多いので晴れてる日の散策が楽しそうです。
でも今回は雨は気になるわ、寺社の閉館時間も気になるわで魔界関係だけで終了。

京都御苑の今出川御門に面する今出川通り沿いには父親の母校同志社大学があり、さらにその並びに冷泉家のお屋敷があります。

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この一帯は同志社大学とその付属校が並んでます。いい環境ですね。

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先ごろ、藤原定家が書き写した「源氏物語」五帖の「若紫」の写本が見つかったと発表がありましたが(定家の写した源氏物語は青表紙本というそうですが)、その藤原定家を祖先とするのが、冷泉家。
藤原定家は平安時代末から鎌倉時代初期の公家で歌人。源氏物語の研究や小倉百人一首などの撰者。

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25代目がお住まいで中は非公開ですが、ちょうど旅行の前にぶらタモリの放送があったおかげで、テレビで中を見ることができました。京都から東京に明治天皇が移る時にお留守番を命じられて、古い行事など今でも実施していらっしゃるとのこと。現在は冷泉家時雨亭文庫として財団法人となっているそうです。https://www.nikkei.com/article/DGXLASJB08H5W_Y6A201C1AA2P00/
文化財は作るのも大変だけど、維持していくほうが更に大変だとしみじみ思います。


さて、魔界巡りに戻ります。この後は菅原道真を祀る北野天満宮へ。現在では学問の神様と言われる菅原道真ですが、平安時代には三大怨霊ですよ。なんで怨霊になってしまったんでしょう?

菅原道真は生まれは定かでは無いようですが、優秀で後に宇多天皇に重用され、次の醍醐天皇の時に右大臣まで上り詰めました。が、名門藤原北家の左大臣藤原時平による策謀により醍醐天皇を廃し、娘婿の親王を皇位に就けようと謀ったとして(昌泰の変)、あえなく失脚。醍醐天皇に釈明することも許されず901年左遷されて子供達も共に太宰府へ。903年に都に戻ることなく太宰府で死去しました。

で、始まりはここから。左遷に関わった皇族や藤原時平をはじめとした貴族が相次いて怪死(基本は病死)。で徐々に右大臣に復したりと名誉回復しつつありましたが、930年、清涼殿に落雷があり、昌泰の変に関与した朝廷の要人たちが死傷(清涼殿落雷事件)。この落雷を目にした醍醐天皇は体調を崩して3ヶ月後には死去。この落雷により、道真の怨霊=雷神と結び付けられました。ここまで道真の死去から約30年、皆さん苦しみましたね。

朝廷は道真の霊を鎮めるために947年北野天満宮を建立しました。京都北野が選ばれたのは道真の霊からの託宣があったことによります。それも複数の人に宣託があったとか。

ここ北野天満宮の宝物殿には北野天神縁起絵巻の清涼殿落雷の場面の複製画があります。
http://kitanotenmangu.or.jp/highlight.php#high_tp7
残念ながら写真撮影不可。


ところで、この北野天満宮の宝物殿には魔界関係としての展示物がもう一つあります。重要文化財に指定されている「鬼切丸(髭切)」

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妖怪退治は当初は陰陽師や密教の僧でしたが、武士が台頭するにつれ武士も加わってきます。有名なのは56代清和天皇の皇子が臣籍降下した清和源氏3代目で摂津源氏の祖、源頼光(948−1021)。
(余談)源氏には清和天皇以外の天皇の皇子から分かれた二十一の系統があります。後の武家源氏の主流の河内源氏は頼光の弟、頼信が祖。頼光、頼信とも藤原道長に仕えて清和源氏繁栄の礎を築いています。

頼光は武勇に優れ、土蜘蛛や酒呑童子(最強の鬼)の退治で有名ですが、部下には頼光四天王(らいこうしてんのう)と呼ばれる四人の部下がいます。
四人の名前は渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武。

四天王の筆頭が渡辺綱(わたなべのつな 953-1025)で先祖は源氏物語の主人公光源氏のモデルと言われる52代嵯峨天皇の皇子で嵯峨源氏の祖、源融(みなもとのとおる 822-895)。
魔界巡りも色々なところに繋がりますね。

前置きが長くなりましたが。
その2の貴船神社のところで触れた一条堀川の戻橋で頼光四天王の一人、渡辺綱が鬼の腕を切った話を書きましたが、その時の刀がこの写真。頼光が渡辺綱に貸し出していた、伯耆国(ほうきのくに)の刀匠・安綱の作。元は「髭切」の名でしたが、一条戻橋の鬼退治で名前を鬼切丸に改めたとか。回り回って今は北野天満宮にある重要文化財です。こちらだけ撮影可。


残念ながら、この日は宝物館を出ると大雨に。時間も時間だし、予定を少し早めに切り上げてこの日の魔界巡りは終了。翌日に続く。




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