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京都魔界めぐり その4 一条戻橋・晴明神社・白峯神宮

この朝の天気は雨の降りそうな曇りでスタート。でも午後は晴れの予報で嬉しい。魔界めぐり3日目はこの旅行中で一番行く場所が多い日です。

この日最初の魔界はバスで堀川通りの「一条戻橋・安倍晴明神社前」で下車して、一条戻橋と安倍晴明神社へ。この界隈にある現在の一条通りは平安時代の一条大路。一条大路は平安京の最北端なので深夜には妖怪がうろうろしていた(百鬼夜行)そうで。

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まずは貴船神社や鬼切丸のエピソードにも出てきました、一条戻橋。この橋は平安京内の一番北にある一条大路で堀川を渡るためにかけられた橋ですが、この場所は大内裏の鬼門(北東)にあり、ここから北は葬送の地でした。

戻り橋の由来は、天台宗の僧・浄蔵が父・三善清行の死の知らせを聞いて舞い戻るもこの橋の上で葬列に遭遇、念仏を唱えたところ、清行が蘇生したと言う伝説から戻橋と名付けたそうです。

戻橋の由来(京都市の立て札)
柳が揺れて風情があります。

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頼光四天王の一人、渡辺綱が鬼女の腕を切り落としたのもこの橋の上。切り落とされた腕は安倍晴明により封印されました。

一条戻橋 
一条通り(平安時代は一条大路)に面しています。

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逆側には一条とあります。(写真にセンスがないのは私のせい)

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橋というのはこの世とあの世をつなぐものだそうで、こちらからあちら(戻橋側)に渡って戻ってくる、つまりあの世から戻ってくる!?ってことのようです。

一条戻橋は晴明神社内に復元模型があるので、またそこで。


陰陽師・安倍晴明を祀る晴明神社(一条戻橋から歩いて3分) 
ここは安倍晴明の屋敷跡で、創建は1007年。広大な神社でしたが、応仁の乱後は荒れ果て規模も縮小されていきましたが、近年復興が進められ現在の姿に。行った日はちょうど秋の例大祭だったのか、境内では御神輿が出発する準備中でした。この後すぐに雨が。。。
https://www.seimeijinja.jp/history/

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鳥居の上についている(社紋というそうです)のは「晴明桔梗」で、陰陽五行思想の「五芒星」ともいい、陰陽道に用いられる祈祷呪符のひとつ。

陰陽道とは。平安時代には学問で陰陽寮という役所(占い・天文・時・暦の編纂を担当)もありました。中国の道教や陰陽思想を下地とし、密教や神道の思想を加えた日本で独自の進化を遂げたもの。陰陽師は陰陽五行説に基づいて天体を読み、暦を扱い、呪術や祈祷を行い吉凶の判断や厄災を回避する術師として天皇や公家等貴人の信頼を集めていたとか。

安倍晴明
こちらの像は神社所有の肖像画を元に作成されたものだそうです。

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陰陽師で名高い安倍晴明(920-1005 平安時代でも長生き)は晴明神社のHPによると朱雀、村上、冷泉、円融、花山、一条の天皇の側近として仕えました。天皇在位の期間と晴明の生年から考えるとざっくりと940-1005年ぐらいでしょうか。史料には40歳から登場してそれ以前はよくわからないようです。

安倍晴明の実績は「小右記」(藤原実資の60年近くに渡る日記)に安倍晴明が急病の一条天皇に禊をしたら平癒したとか、「御堂関白記」(藤原道長の日記)に深刻な干ばつが続いたため晴明に雨乞いをさせたら雨が降ったなどが記されていて、死去した11世紀の内にはすでに神秘化されていています。

陰陽道は呪術を用いますが、その際に安倍晴明は「式神」と呼ばれる鬼神を使っていました。晴明は式神を必要に応じて使用に適った能力を備える鳥獣や異形の者へと変化させていました。その式神がいたのが一条戻橋。なぜかというと晴明の妻は式神を怖がったので、晴明は普段は式神を一条戻橋の下に隠していたとか。(笑)

晴明神社内の一条戻橋(再現)と式神の石像
神社のHPによると式神は人の目に見えないそうですが、奥さんには見えてしまったんですね。式神が橋の下にいた時には(つまり暇な時ってことか)橋を渡る人の占い(橋占)をしていたそうですが、戻れないと言われたら。。

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一条戻橋のエピソードをもう一つ。安倍晴明の父親は晴明のライバル・蘆屋道満の陰謀により殺されてしまいますが、晴明はバラバラになった遺骸を集めて一条戻橋で甦らせました。陰陽道でいう生活続命(しょうかつぞくみょう)の法で命を吹き返す橋にちなむ伝承です。

最後にみずかがみ守(集中力向上)、桔梗のシーズン限定(6月から9月)の桔梗守(誠の心を育む)を購入。今のシーズンはもみじ守(11月中旬から12月中旬)。お守りにも期間限定があるのを初めて知りました。参拝できない人用に神社HPでオンライン購入もあり。

余談ですが、一条天皇の時代(在位986ー1011)は藤原道隆(中宮・定子の父)・藤原道長(中宮・彰子の父)と全盛期の藤原兄弟の時代でもあります。二人の中宮の周りでは清少納言、紫式部、和泉式部が登場しました。ほぼ同時代人として安倍晴明もいたとは平安時代のスーパースターが揃った時代ですね。

それでは次の魔界、晴明神社から歩いて5分の白峯神宮へ。
http://shiraminejingu.or.jp/

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白峯神宮は配流されてその地で没した75代崇徳天皇(1119-1164)、47代淳仁天皇(733-765)を祀っています。平安末期と奈良時代の天皇を祀っている割には創建は明治に改元する2日前(1868年9月6日)。他にここに祀られている「精大明神」は蹴鞠の守護神で球技全般およびスポーツの守護神となってます。

神社内には蹴鞠の碑や蹴鞠場もあります。

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各種競技のボールも奉納されています。テニスボールも。

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オリンピックが翌年に控えているからというのもあるからか、こちらスポーツが目立つのですが、こちら怨霊に関係が深いのです。

平安京の三大怨霊は、菅原道真、平将門、崇徳天皇。そのうちの一人、崇徳天皇がここに祀られているのです。この中でも最強の怨霊は平安時代後期の崇徳天皇(上皇)。天皇なのになんで怨霊になってしまったのかというと。

1123年、当時は白河法皇の院政で74代鳥羽天皇(白河法皇の孫)の第一皇子の崇徳天皇が、曽祖父の白河法皇の力添えにより5歳で即位。鳥羽天皇は実権を白河法皇に握られたまま上皇に譲位させられます。

1129年、白河法皇が崩御し、鳥羽上皇が院政を開始し、1142年には崇徳天皇を退位させて、自身の第九皇子で3歳の体仁親王(近衛天皇)を即位させます。体仁親王は崇徳天皇の養子だったので皇太子なのですが、譲位の宣命には体仁親王が皇太弟と「弟」となってました。鳥羽上皇の陰謀です。

院政は天皇の父として自分の子供もしくは孫を後見するシステムなので次の天皇が弟では院政は出来ないのです。ただ、崇徳院には第一皇子の重仁親王がおり、美福門院(近衛天皇の母で鳥羽上皇の后)の養子となっていたので重仁親王が天皇になればという望みは残りますが。

1155年、近衛天皇は17歳で早世し、鳥羽法皇は近衛天皇の養子の重仁親王でなく、自らの第四皇子である雅仁親王(後白河天皇)を即位させます。後白河天皇は成人しており、後白河天皇自身の皇子である守仁親王(次の二条天皇)を立太子したため、崇徳上皇の院政の可能性はなくなります。こうして崇徳上皇と鳥羽法皇・後白河天皇は本格的に対立します(そこに摂関家・平氏・源氏が入りややこしい)。

1156年、鳥羽法皇が崩御。白河天皇vs崇徳上皇の対立は1週間後には保元の乱に発展しますが、結果は後白河天皇が勝利し、乱に破れた崇徳上皇は讃岐へ配流されます。天皇の配流は藤原仲麻呂の乱で淳仁天皇が配流されて以来400年ぶり。勝利した後白河天皇は勝利宣言として保元の宣命をだします。

讃岐で軟禁生活を送っていた崇徳上皇は、仏教に深く帰依して写本作りに専念して京都の寺に収めて欲しいと朝廷に差し出したところ。。後白河上皇(1158年譲位して院政をしていた)に呪詛ではないかと拒否されます。

これに怒った崇徳上皇は自らの舌を噛み切り、その血で写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と書き記します。後白河上皇が余計なことをしたがゆえに本当に呪われてしまったとしか言いようがないです。

大魔縁とは天狗のことで、自分は大天狗になって天皇は民となり、民が天下を取るようにしてやる、この宣言を魔界に差し向けると皇家に対して復讐を。以後の崇徳上皇は髪も爪も伸ばし放題で後に姿も天狗のようになってしまったとか。興味のある方は歌川国芳の「讃岐に流された崇徳上皇」の画をどうぞ。

保元の乱後の1158年、今度は後白河上皇と二条天皇(二人は親子)の間で平治の乱が勃発、武家の中から平氏が台頭してきます。時代が変革を始めますが、まだ「皇を取って民とし民を皇となさん」とは思わなかったようです。

讃岐に配流されて8年後の1164年に崇徳上皇はその地で崩御。蓋をしめた棺からは血が溢れ、火葬にされた煙が都の方角に流れ、朝廷による葬礼もなく、院号も讃岐院として罪人扱いされたまま白峯陵に埋葬され月日は流れますが。。。

1176年、六条天皇など後白河上皇に近い皇族・貴族が相次いで死去し、崇徳上皇の怨霊が意識されはじめます。1177年の大事件(延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀など)が崇徳上皇の怨霊にさらに拍車をかけ、とうとう1184年には後白河上皇は保元の宣命を破却、院号も崇徳院に改め、保元の乱の古戦場に崇徳院廟を創建します。(現在の京都市東山区祇園町南側)

時はすぎて、121代孝明天皇は崇徳天皇の神霊を京都に迎えるよう幕府に命じていましたが、崩御により叶わず、122代明治天皇が1868年に白峯宮を創建し白峰山陵から移し、5年後、淡路に配流されて崩御した淳仁天皇の神霊を合祀し、白峯神宮として現在に至っています。

また1964年(東京オリンピックの年)は崇徳天皇800年式年祭にあたり、124代昭和天皇は崇徳天皇陵(香川県坂出市)に勅使を出しています。怨霊は現代にまで続いてるとは思えないけど、気を遣っているんですね。

崇徳天皇の歌
崇徳上皇が譲位後に開いた歌会で詠まれた歌(小倉百人一首 No.77)
なんとなく優雅に聴こえるのですが、こんな解釈が。

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「われても末にあはむとぞ思ふ」というから恋の歌みたいですが、きっと違います。「一度は退位したけど、またの機会だってある」と言っているように見えます。自分がもう一度即位するのか、あるいは、自分の息子を天皇にするのか。(橋本治「百人一首がよくわかる」より)

背景が長くなりましたが、後世から見ると崇徳天皇の怨霊のパワーは権力争いというパワーゲームの凄まじさ、人間の想像力、勝者の後ろめたさそして時代の変わり目が揃っていたからかな。

*一部箇所修正しました
誤)結果は白河天皇が勝利し→正)結果は後白河天皇が勝利し






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