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京都魔界めぐり その1

夫が京都に行きたいと言う。それも魔界めぐりに行きたいって。彼は京都の魔界に関する本をいろいろ物色してきては嬉しそうに読んだり、今年放映があった京都魔界めぐりの放送を見て楽しんでいる。魔界って何ですか?

まぁ平安京の時代は太陽が沈んで日が昇るまで、真っ暗な時間が長かったから目に見えないものが多く、想像力も働きやすかったろう。都があったこと1000年以上、色々な(悪い)出来事があったろうしね。
ウグイス鳴くよ平安京(794年平安京遷都)なんて覚えたな。

私は魔界をめぐるのはそれほど興味はないんだけど、久しぶりに京都を歩くのも良いなっと思い、今年の遅い夏休みは(私は人生の夏休み中だが)京都に行くことに。

事前と当日のルートは行きたい人にお任せして、後日の旅行記は後からその地の歴史を調べつつ私が書くことに。
というわけで、今回の旅行の目的は京都の魔界です。

ところが、3泊4日で歩き回る予定なのに、天気予報では台風17号が来る予報。雨と風の中を歩くことを覚悟しないとなと思っていた9月の2回目の3連休初日、どんよりとしているもののとりあえず新幹線までは雨が降らなくて良かった。

新幹線に乗るのもかなり久しぶり。3連休初日なので混むと思っていたお昼の新幹線は飛行機に比べて便数がとても多く、予約も余裕だった。当日も新横浜駅だったというのもあると思うんだけど、駅もさほど混雑しないで座席も余裕あり。

どんよりとしたお天気の中、京都駅に到着。ホテルは京都駅近くなのでまずは荷物を置き、1日目は時間もないので魔界でなく街歩きを。

まずは一般的な観光コース、東西の本願寺へ。そういえば本願寺ってどちらも行ったことなかった私。ホテルからは東本願寺も西本願寺もほぼ同じくらいの距離で特に理由はなく東本願寺からスタート。

本願寺は東と西があり、東本願寺は寺院内でも東本願寺ですが、西本願寺と言われるところは寺院内では本願寺と書いています。つまり本家はこっち(西本願寺)ってことですね。

東本願寺

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西本願寺

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でも、本願寺って書いてあるけど?西本願寺なのに?

ちなみに東西というのはその位置から。住所は
東本願寺 京都市下京区烏丸通七条上ル
西本願寺 京都市下京区堀川通花屋町下ル

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どっちも元は浄土真宗宗祖の親鸞(1173-1263)。鎌倉時代の方ですね。この時代に90歳で往生とは超人。生命力には個人差があります。

本願寺は元は親鸞聖人の没後の廟堂から発展したもので、場所も現在とは違い、最初は京都東山の鳥辺野の北、大谷に、1272年に大谷の西、吉水の北に大谷廟堂を建てて、遺骨を移しています。

鳥辺野とは平安時代以来の墓所で、現在の京都市東山区の清水寺から西大谷に通じるところ。

ところで、本願寺はご近所にあるのになぜ東西に分かれているのか?
時代が経るうちに教義が分かれてきた(よくある)のかと思ったのですが、それぞれのHPを見た所、分裂は教義上のものではなかったようです。
ざっくりそれぞれの本願寺のHPから歴史をまとめてみると。

本願寺自体の名称は1321年頃から使用。この頃は大谷本願寺。その後、室町時代に比叡山衆徒により破却されて1471年に越前の吉崎へ。戦国時代手前の時代、門徒も武装して一揆を起こす事態を鎮めようと河内に出て、1490年に京都山科本願寺が造営されています。

戦国時代の1532年に京都山科本願寺が焼き払われ、京都から大坂石山御坊に移動(大坂石山本願寺)、発展するも今度は織田信長との11年に及ぶ石山戦争とその和議(1580年)で大坂から退去、紀伊鷺森、和泉貝塚を経て、豊臣秀吉の寺地寄進で大坂天満へ。この後1591年に豊臣秀吉の京都市街経営計画によりやっと京都に戻ることになり、顕如(けんにょ)上人は六条堀川(現在の場所)を選択。場所をかえて存続してきたんですね。

ところが、顕如上人が没した後に内部分裂が。長男の教如(きょうにょ)上人が後を継ぐも三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた譲状(ゆずりじょう)があり、教如上人は豊臣秀吉に隠退させられて准如上人が後継者に。これは大阪石山本願寺退去時に和議受け入れの退去派の顕如上人と籠城派の教如上人との対立があったとのこと。

その後も活動していた教如上人は徳川家康に接近、当時の権力は豊臣から徳川に移る一歩手前。1602年、教如上人は徳川家康から烏丸七条に寺地を寄進されて1604年御堂を建立(真宗大谷派)して新たな本願寺を創立。本願寺は東西に分立したとのこと。

あぁ、徳川家康はあえて(わざと)本願寺より東側を寄進したんだろうし、西本願寺は西って言わないで本願寺(浄土真宗本願寺派)だと主張するのでしょうね。
そして、天下分け目の東西に分かれた関ヶ原の合戦は同じ頃1603年。
追記 1603年ではなく1600年でした。

本願寺はこのくらいにして、堀川通を歩くと史跡がありました。知らないと素通りしそうな史跡。

左女牛井跡(さめがいのあと)
隣の看板に源頼義、義家、為義、義朝、義経(平安時代後期の源氏のスター達)までが拠点にしていた源氏六条堀川館内の井戸であったと伝えられているとあります。京都の名水の一つで茶人の村田珠光が将軍足利義政に献茶した際にこの水を汲み(京都でいう先の大戦である応仁の乱の時代)、千利休も愛用したそうです。第二次世界大戦中堀川通の拡張で消滅したと京都市のHPにあります。

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ここからてくてくと新撰組ゆかりの壬生寺方面へ。

旧前川邸 
新撰組の壬生での屯所。こちらは個人宅で公開していないそうですが、土日祝日にもう少し奥の玄関(当時の隊士が通っていた勝手口)でグッズ販売をしているそうです。

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壬生寺
平安時代に創建されたお寺で名前は変わりながら存続していた新撰組ゆかりのお寺。境内の壬生塚には隊士の墓塔が祀られているそうですが、17時閉門の3分前に滑り込んだので壬生塚は見ずに終わりました。特に思い入れがあるわけではないのでいいのですが。入る方も出る方も時間厳守です。

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そういえば、本願寺には新撰組が池田屋騒動以降隊士が増えて壬生屯所が狭くなったので本願寺の一角の太鼓楼を使用していたと書いています。なお、本願寺は長州と深い縁があったそうなので、相対する新撰組が本願寺を屯所としたってことは占拠されてたってこと?

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お寺さんはだいたい17時頃には閉門なので、このあとは私が行きたかったほぼ日のお店TOBICHI京都までは約3キロ。四条通りを休憩しつつ歩いていると平将門の首塚跡があった。平将門って関東じゃないの?将門の首級は平安京に送られて晒された後、故郷まで飛んで行って数カ所に落ちたそうです。。1つじゃないんだ。。これ以上はやめましょう。

河原町通りのTOBICHI京都はレトロなビルにこじんまりと。残念ながら私が欲しかったものは置いてなくて見るだけになってしまった。

TOBICHI京都をでると、このあたりは高瀬川があり、その先には鴨川(写真右のほう)が通っている。鴨川沿いは川床の良さそげなレストランがあるけれどお値段も良さそうなのでパスして写真だけ。

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我々の夕食は鴨川から高瀬川の方に戻って見つけた鯛飯と鯛ラーメン(京風でなく愛媛県宇和島産)で。あっさりして優しいお味。

お腹も満足して、四条河原町のバス乗り場から市営バスでホテル最寄りの下京区総合庁舎前まで。

本日歩いた距離

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翌日から魔界めぐりへ。

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