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【預言的学び】暗黒と神の国の輝き

下記記事は今から約15年前の2005年、鳥インフルエンザが世界で猛威を振るったころにWWGMに掲載された、リック・ジョイナー牧師が啓示されたことの翻訳記事です。今現在の状況に通じる重要な学びがあるため掲載します。

WWGM: Walk With God Ministriesより
2005(平成17/ユダヤ暦5766)年12月31日 暗黒と神の国の輝き(1)
https://ministries.exblog.jp/2938902/
2006(平成18/ユダヤ暦5766)年1月25日 暗黒と神の国の輝き(2)
https://ministries.exblog.jp/3083463/

暗黒と神の国の輝き リック・ジョイナー  12月31日
暗雲と神の国の輝き(1)リック・ジョイナー (訳者:渡橋 喜代佳)

(オリジナル)WWGM: Walk with God Ministries より
https://ministries.exblog.jp/2938902/

ーーーーーー以下引用ーーーーーーー

2005年8月22日、私は夢を見た。夢の中で、感じのいい静かな通りを歩いていた。突然、西の方から大変な危険が自分の方に向かって来るのを感じた。振り向くと、非常に不気味な暗雲がこちらに迫っていた。その雲ははるかかなたまで一直線に延びており、すぐそこまで接近している。私はすぐそばの家に避難した。中に入りさえすれば、安全だった。しかし、ドアを開けようとするが、開かない。鍵は私のポケットにある。鍵に手をやるが、恐怖のあまり身動きできなくなった私は、ドアを開けようにも、ポケットから鍵を取り出すこともできない......夢はそこで終わった。
この夢ですさまじい恐怖を覚えて、私はひどく苦しんだ。数日間その解き明かしを主に求め、預言者である友人のボブ・ジョンズにも尋ねてみた。そして、この雲がアジアから(私たちのいる西側に)もたらされる死のウィルスだということが示されたのだった。この夢のメッセージはこうだ。私たちにはこのウィルスに対して安全な場所があるし、そこに入る鍵も与えられている。それは神の国の鍵である。ところが、恐怖のあまりそこに入れないということもありえる。この暗雲がどんなに接近していたとしても、避難所である神の国もまたすぐそばにあるのだ。

道を備えよ

まず確認しておきたいが、もし私たちクリスチャンが岩の上に家を建てているなら、この地上に来ようとしているどんなものをも恐れる理由はない。主のことばを聞いてそれに従うことで、私たちは岩の上に家を建てるのである(マタイ7:24~27参照)。主のことばを聞いたことのない、あるいは、聞いても従わなかった愚かな人々にも、悔い改めるための時はまだあるにはあるが、あまり残されていない。時が迫っているからだ。夢の中で暗雲が非常に接近していたのは、このタイミングのことだった。
私たちには揺らぐことのない神の国があり、この地上を襲うどんなものからもまったく安全で確かな避難所がある。すでに述べたように、この安全な場所に入るための鍵は、主がご自身の教会に与えてくださった神の国の鍵である。けれども、クリスチャンだと言いながら、実際は、神の国のやり方ではなくこの世のやり方に従い、主のためではなく自分のために生きている人たちには、悔い改めの時はわずかしか残されていない。

聖書は、この時代の終わりに世界がどのようになるかについて、非常に明確に語っている。
1テサロニケ5:2~6からは、励ましと警告の両方が与えられている。
「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」

この先世界がどのような事態にいたったとしても、クリスチャンは驚くべきではない。この地上を何が襲っても驚かない、終わりの時代の預言的なミニストリーが起こされることだろう。主の羊たちは、主の声を知っていると言われている。彼らはそうした事態に対する備えがなされて、主の囲いの中で安全に過ごすことができるのだ。主の声を知らないか、主の声に従わない人々は、たちまち、もっとも過酷な危機的状況にさらされるようになるだろう。
何であっても、否定的だとわかると、それを受け入れることが教理的にできなくなっているクリスチャンが多い。彼らは、上記の引用箇所にあるように慎み深くしているのではなく、霊的な酩酊状態にある。すぐに酔いから覚めるのでなければ、次は昏睡状態に陥るだろう。繰り返すが、この世界がどのようになるかについて、聖書は非常に明確に語っている。

問題は何なのか?

この時代の終わりに世界を襲う艱難や苦難は、基本的には、人間が神を無視して生きようとしている結果引き起こされるのだ。創造主との調和の中にいなければ、どんな被造物も、うまくいくことはありえない。この時代が終わると、すべての被造物が、そうした愚かなことは2度としてはならないことを永遠に証しするだろう。
最大規模にまでおよぼうとしている暴風雨や他の自然災害さえも、その原因は人間側にある。人間にはこの地を治める権限が与えられたにもかかわらず、みずからが神の支配に服していないため、正しく治めることをしてこなかったからだ。しかしながら、神との根本的な関係が回復されて、神に従って生きているクリスチャンは、世界にもたらされようとしている事態を恐れる必要はないし、そうした事態に対しても権威を行使して、地域全体を大災害から守ることも可能である。
主に従順な人々と従順でない人々には、はっきりした違いが見られるようになる。といっても、従順で「岩」の上に自分の人生を築いた人々が守られるのは、自分たちが大災害を免れたことを誇るためではない。主を無視して生きようとしてきた愚かな人々を助けるためである。私たちは、主がすべての人の救いを望んでおられ、いつもさばきよりもあわれみを示したいと思っておられることを、けっして忘れてはならない。マタイ5:44~46で、主はこう語っておられる。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。」

主は、すべての人々を愛しておられる。主を憎み、主や主のやり方に反逆する人々をも愛しておられる。愛情ある父親のように、たとえその反逆する子どもたちが悔い改めないとわかっておられても、主はその子どもたちのためにもよいことをしてくださるのだ。したがって、来たるべき破壊的状況のただ中にあっても、反逆する人々にも力を尽くしておられる神のあわれみや恵み、優しさが見られることだろう。

この時代の終わりに世界を襲う艱難や苦難は、基本的には、人間が神を無視して生きようとしてきたことの結果である。
人々は非常な苦しみを経験すると、もし神が愛の神ならどうしてそのようなことが起こるのを許されるのか、とよく問うものだ。実は、神がそうしたことをゆるされるのではない。私たちがゆるすのだ。終わりの時に世界を襲う恐るべき苦難は、私たちがみずからもたらすのである。詩篇115:16にこう語られているからだ。「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」主は、私たちが主に立ち返るなら、介入してくださる。けれども、もし私たちが立ち返るのでなければ、この地上にもたらされるすべてのものは、人間が神を無視して生き、治めようとする、そのみずからの愚かしさの結果なのである。
とはいえ、これは、来たるべき苦難が神のさばきだという事実を否定するものではない。神は愛であられ、さばきさえも私たちに対する神の愛ゆえになされる。さばきのただ中においても、神はあわれみの御手を差し伸べて、暗闇にいる人々を救ってくださるだろう。神のさばきは必然的なもので、人間は蒔いたものを刈り取らなければならない。その神のさばきは公正であり、最大限のあわれみに満ちている.......これが私たちの確信であり、信頼である。

苦難の時が始まり、罪が人間のまったく手に負えない問題を生み出していくが、同時に、それは、私たちの知るかぎり最大の収穫の時にもなっていく。恵みを示された人々は、神に反逆する愚かな人々を激しく非難してはならない。むしろ、そうした人々の救いを求めていくのだ。私たちも、かつては愚かで神に反逆していたのが、あわれみを示されたのだった。だから、最大現のあわれみを示すようにしたい。

私たちは災禍を止めることができる

使徒パウロは、イスラエルの民が荒野で試練にあっている間、みずからの罪のために何度も大きなさばきを身に招いたことを語っているが、その後こういう言葉でしめくくっている。
「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(1コリント10:11)荒野にいたイスラエルの民に起こったすべてのことは、どのようにして主とつながりを持つかということや罪の結果についての、私たちに対する啓示となっている。民数記16章ではコラの反逆についての教訓が記されており、46~48節では、(私たちはいつもそうなのだが)たとえ民がその災難を受けて当然な場合であっても、どうやってそれを止めることができるかについてきわめて重要なことを、今日の私たちに啓示している。
モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの購いをしなさい。主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。」
アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の購いをした。
彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。詩篇や黙示録から明らかなように、香というのは通常、祈りやとりなしを表している。
上記の箇所は、私たちのとりなしがどのようにして災難を止めることができるか、その好例である。アジアからもたらされようとしているこのインフルエンザのように強力で致命的なものであっても、私たちは死んだ人々と生きている人々との間に立って、その災難を止めることができるのだ。

災禍

災禍の詳細はまだ公にされていないが、世界保健機構の関係者たちは、かつて人類を襲った中でおそらく最悪の災禍がまもなく世界中に拡大していくものと予想している。それは、これまでのどのウィルスよりもはるかに甚大な被害をおよぼすとされるインフルエンザウィルスによるもので、現代医学をもってしても、それを止めたり抑えたりすることはできない。このことはまもなく、大々的にニュースで取り上げられるようになるだろう。しかし、たとえニュースが、また預言者が、何を言ったとしても、私たちの祈りがその流れを変えて、私たちの家族や教会、住んでいる都市をも守ることができるということを理解しておく必要がある。

科学者によると、鳥インフルエンザは、かつてこの地上を襲った中で最も破壊的な災禍になる危険性がある。"Foreign Affairs" 7月/8月号の冒頭のページにこう記されている。「科学者たちは、ずっと以前より、想像を絶する数の人々を死にいたらしめるインフルエンザウィルスの出現を予測していたが、鳥インフルエンザは、その疾病になりうる兆候を示している。」
私はWTO(世界貿易機構)の関係者からこの号をいただいた。そこには、この分野で最高の専門家たちによる最も衝撃的な記事が満載されていた。その記事は、彼らのウェブサイト(www.foreignaffairs.org,)からでも読むことができる。また、インターネットで「鳥インフルエンザ」を検索することも可能だ。だが、そこに書かれてある内容を読むなら、パニックになるかもしれない。もし鳥インフルエンザについて調べようとするなら、パニックや恐れというのは私たちの最大の敵だということを、どうか心に留めておいていただきたい。私たちは、恐れに支配されないように注意していなければならない。

ここで少し具体的な数字をあげてみよう。たとえば、ニュージーランドは、人口400万のうち140万人がこのウィルスに感染し、ほぼ30万人が死亡するのではないかと警告している。まったく想像を絶する数字である。しかし、彼らの報告書を読むなら、現在のところ、このウィルスに感染した人の致死率は54%なのである。もし感染者の54%が死亡するとしたら、この数字は、彼らの概算よりもはるかに多いことになる。けれども、彼らが概算している少ない数字であったとしても、祈りによってその数字は減らすことができる。
今は、このために祈る時なのである!
現在のところ、このインフルエンザの感染者致死率は、人間の場合で54%から58%、動物の場合は100%になるということだ。このウィルスと戦えるワクチンはまだできていないし、できる可能性もまずないだろうと皆が認めている。また、たとえできたとしても、ワクチンを製造できていた会社の多くが、訴訟や他の問題のために、このビジネスから撤退を余儀なくされている。ワクチンを製造できる会社は世界でも2社にとどまり、その製造能力は限られている。ワクチンが製造されたとしても、世界全体でおそらく100万人分以下しか確保できないだろうと言われており、それも、パニック状態になった場合の治安維持のために、世界的な指導者や警察、軍関係者たちに用いられることになるだろう。

世界保健機構の関係者や科学者たちは声をそろえて、問題はこの死のインフルエンザが発生するかどうかではなく、いつ発生するかなのだと語っている。
繰り返すが、人類の問題は、今や人類の手に負えないところにまで来ている。しかし、神にとって、あるいは、神を知って神に従う人々にとって、不可能はない。世界のトップがこれから起こることについて何と言おうと、私たちは主に立ち返って、主が何を望んでおられるかを知らなければならない。主がさばきよりもあわれみを好まれるということを確信して、固く立つことができるのだ。
科学者によると、最良のシナリオで、人口の5%だけだとして、約1500万人のアメリカ人の命が失われることになる。この数字は、合衆国のこれまでのすべての戦争とすべての自然災害における死者を合計した数の数倍にもおよぶ。これがほんの2、3か月の間に起こることであり、計画している「ベストケース」なのだ。ワーストケースなら、その数字は、"Foreign Affairs"が言っているように、「想像を絶する」ことになる。これが世間で言われていることだ。繰り返すが、こうした事態は、主が指をちょっと動かされるだけで変わってくる。それでも、私たちは、何が起ころうとしているのかを知っておかなければならない。

1918年に大流行したインフルエンザのことを記憶している人はほとんどおられないだろう。このインフルエンザによって合衆国で、わかっているだけでも何十万人もの人が亡くなったが、記録に残っていない人の数はおそらくもっと多いものと思われる。他の国の死亡者の割合となると、これよりさらに高くなる。当時は第一次世界大戦中であったが、このインフルエンザのために死亡した米軍兵士の数は、戦死した兵士の数を上回っていたとされる。だが、鳥インフルエンザは、可能性としては、これよりもはるかに危険なのだ。

世界保健機構の関係者や科学者たちは声をそろえて、問題はこの死のインフルエンザが発生するかどうかではなく、いつ発生するかなのだと語っている。彼らはまた、それが歴史上最悪の死をもたらす災禍であると、これもかなり一致した見解を示している。このインフルエンザの発生は、今年かもしれないし、来年かもしれない。あるいは、数年先になるかもしれない。いずれにせよ、迫って来ていることに間違いはない。私が見た暗雲の夢がその時を示しているとしたら、すぐそこまで来ている。今は、あの鍵を見つけて、主の家に入る時である。そして、主の家とは、今この地上における神の国、すなわち、主の教会のことである。

私たちには権威がある

ほんの数年前のことだが、インフルエンザが発生して、ほとんどすべての州で死亡者が確認されたことがある。そのことは頻繁にニュースに取り上げられており、州ごとの予想死亡者数も公表されていた。ボブ・ジョンズは、もし私たちが主から与えられている権威を行使するのであれば、この災禍を止めることができるという夢を見た。そこで、その日のコンファレンスで、ボブと私は立ち上がり、そのインフルエンザに対して権威を行使し、それが合衆国全体で終息するように祈った。すると、その日以来、このインフルエンザによる死亡が確認されなかったばかりか、再びニュースに取り上げられることもなくなったのだ。
今では、ボブと私は毎年こうした祈りをしているが、少なくとも私たちが霊的な権威を与えられていると感じる領域においては、主が私たちの祈りを聞かれて、インフルエンザの流行を止めておられるのは明らかだ。もし、教会が立ち上がり、与えられている権威を行使し始めるなら、来たるべきこれらの災禍による死を止めることができるか、少なくとも、大幅に減らすことができるのである。

私たちは、この時代(世)の終わりが近づくにつれ、このような災禍が来ようとしていることはよくわかっている。黙示録にあるように、中には、地上にいる人々の3分の1を死に至らせるほどに破壊的な災禍もあるのだ(鳥インフルエンザがそうだと信じている人もいる)。これらのものは決定されており、変えることはできない。とはいえ、クリスチャンもそうした災禍にあわなければならないというわけではない。私たちは守りを得られるし、他の多くの人々にとっての守りともなりうる。鳥インフルエンザの危険にさらされているクリスチャンというのは、前から自分たちに与えられている神の国の鍵を用いなかったクリスチャンのことである。

私の夢では、迫っている暗雲から無事に逃れるためには、家の中に逃げ込まなければならなかった。その家とは主の家である。だとすると、これはどんな意味なのか。それは、教会と密接に関わり合っていない大勢のクリスチャンは、危険にさらされているということだ。この時代においては教会が地上における神の国なのである。1コリント11:27~30で、パウロはこう警告している。
「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」

ふさわしくないままで聖餐式にのぞむとは、その礼典があらわしていることの現実が自分たちの生活にないのに、その礼典にのぞむことである。この場合、その現実とは、キリストのからだとの親しい交わり(communion)、あるいは、キリストのからだに共に結び合わされていること(common-union)を言う。多くの人々は、痛ましいことに、礼典にのぞむことで「親しい交わりをもつ」という自分たちの義務を果たしているのだと思い込まされているが、それこそがまさにふさわしくないままで礼典にのぞんでいることなのである。こうした礼典は、私たちの義務を思い起こさせるために与えられているのであって、けっして私たちの義務に取って代わるものではない。もし、聖餐式の礼典にのぞんでいながら、「みからだをわきまえる」ことをしないなら、すなわち、「エペソ4章に命じられているように、正しくみからだに共に組み合わされて、現実に親しい交わりをもつ」ということをしないのであれば、私たちは、まさにここの箇所が警告しているように、弱くなったり、病気になったりするだろうし、死ぬ者さえ出てくるだろう。

ここ数年間にわたって主が私に与えてこられた最も重要な警告は、教会の親しい交わりから離れているクリスチャンに向けられていた。これに関しては、「スターバックス(訳者注:コーヒーショップの名)での友人同士の集まりが私たちの教会です。」というものから、「主が私たちと共にいてくださるのだから、2人か3人集まる所はどこでもそこが教会なのです。」というものまで、ありとあらゆる弁解の言葉を聞いてきた。たしかに、わずか2人か3人が集まることのできる場も教会でありうるとか、どんな集まりも教会生活の一部だという考えにも、それなりの真理は含まれていると思うが、私たちにはキリストのみからだに共に結び合わされていること(common-union)が求められているのであって、そうした考えはこの求められている全体像にはるかに及ばないのである。

また、たしかに、今は教会の根本的な変革(トランスフォーメーション)がなされていて、この時代に聖霊の働きが拡大しているミニストリーの一つは、市場でのミニストリー(マーケットプレイス・ミニストリー)であるし、主はご自分の教会が1日24時間、1週間で7日機能していることを望んでおられる。しかし、だからと言って、このどれもが私たちにとって地域の教会生活の重要性と必要性を否定するものではない。ここ数年間にわたって主が私に与えてこられた最も重要な警告は、教会の交わりから離れているクリスチャンに向けられていた。

私たちが地域の教会の一員である必要はないという欺きのために、多くの人々が、クリスチャンとして真に成熟するために必要な、真の教会生活でのいのちの触れ合う人間関係から離てしまっている。私が夢で見たあの暗雲が過ぎ去った後には、そんな惑わしにある人はあまり残ていないだろう。まさに上記の箇所でパウロが警告しているように、彼らは、弱い者や病人であり、多くは死んでさえいる(訳者注:英語の欽定訳聖書ではここの動詞は"sleep"「眠っている」)。そして、来たるべき病に非常に冒されやすい人々なのだ。
1ヨハネ1:6~7でこう言われている。
「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちを清めます。」

この箇所にある「交わり」と訳されているギリシャ語の単語は「コイノニア」で、週に一度礼拝に出席した時に背中をポンとたたいたり、握手したりといった程度をはるかに超えた交わりを言う。それはごく普通の関係を超越した、生きた深い関係である。これが、私たちが光の中を歩んでいるならば、持てている交わりなのだ。新約聖書では、救われた人々はすべて教会に加えられている。彼らは、単にうわべだけの薄っぺらな関係の中で過ごしていたというのではなかった。

多くの人々がぎりぎりのところで隠し持っていた鍵を使おうとするが、そのときにはパニックに陥っているため、使うことができなくなる。今が、惑わしやあざむきのためにキリストのみからだから離れてしまったことを悔い改める時である。ぎりぎりまで待ってはならない。私は、すべてのクリスチャンが教会から逃げるのではなく、教会に逃げ込むことを心から願っている。

どんなに失敗したり、人を失望させたりしようと、また、ときには退屈であろうと、教会こそが、やがて世界を襲おうとしている災禍から逃れることのできる唯一の避難所である。その失敗や失望に耐えている人々は成熟して、今はまだ想像もできないほどの喜びに入れられるようになり、後の時代には、キリストのみからだの交わりもその喜びに入れられていく。もし私たちが、みからだのメンバーがこの喜びにいたるために経験しなければならないすべての取り扱いから逃げているなら、みからだが本来のあるべき姿に変えられたとき、私たちはそれにふさわしくない者となるだろう。そのときには、あのドアの鍵はかかっていて、その鍵を手にすることができなくなるのだ。(続く)


暗黒と神の国の輝き(2) リック・ジョイナー 1月25日
暗雲と神の国の輝き(2)
リック・ジョイナー(訳者:渡橋喜代佳)

(オリジナル)WWGM: Walk with God Ministries より
https://ministries.exblog.jp/3083463/

ーーーーーー以下引用ーーーーーーー

産みの苦しみを理解する

私たちは、分娩中の女性に陣痛が襲うように、霊的な陣痛が世界を襲っているのを見るようになる。出産が近づくにつれて母親の陣痛がひどくなり、その間隔も狭まるように、この世界を襲う苦難もますます激しさを増し、頻発するようになるだろう。嵐も激化し、地震も激化していく。病気もまた悪化するばかりだろう。そうした中で、神を知り神に近づいている人々は、キリストがこの地を支配される新しい時代が到来するための産みの苦しみをとおして、さらなる栄光を経験するのである。
分娩中の女性は、動揺を避けるため、何か「焦点」となるものを見つけてそれに意識を集中させるように教えられるが、私たちもまた同様のことをしなければならない。私たちの焦点になるのは、主ご自身である。私たちの注意を、世界で起こっていることにだけではなく、主と主がなさっておられることにもしっかり向けていなければならない。
ヘブル12章で言われているように、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての揺り動かされるものが揺り動かされる。揺り動かしが来るなら、何がこの世のもので、何が揺り動かされることのない神の国のものかが明らかになるだろう。前述したとおり、私たちは主のことばを聞いて主に従いながら、岩の上に自分の家を建てている。嵐や洪水はその建てたところまでやって来るかもしれない。しかし、私たちの家は倒れることなく、もちこたえるのである。けれども、もし、今私たちが詩篇32:6~11にあるこの警告に注意を払わなければ、異教徒よりも愚かな者となるだろう。

それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。
あなたにお会いできる間に。
まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。
あなたは私の隠れ場。
あなたは苦しみから私を守り、
救いの歓声で、私を取り囲まれます。

わたしは、あなたがたに悟りを与え、
行くべき道を教えよう。
わたしはあなたがたに目を留めて、
助言を与えよう。
あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。
それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、
あなたに近づかない。

悪者には心の痛みが多い。
しかし、主に信頼する者には、
恵みが、その人を取り囲む。
正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。
すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

この時代(世)の終わりは、何年か先というよりは、まだ何十年か先のことになるだろう。戦略と将来のビジョンをもって生きていくことが重要である。世界がばらばらに崩壊し始めるときに、もし私たちが主を知って主のみこころを行なっているなら、私たちは築き上げていることになる。けれども、揺り動かしが始まったり、嵐が来たりするまで、「岩」の上に自分たちの家を建てるのを待つ、ということのないようにしよう。今が建てる時である。洪水が来てからでは遅すぎるのだ。
また、これらの苦難が来たときには、ダニエル11:31~35に記されていることを、私たちも決意しなければならない。

彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、
荒らす忌むべきものを据える。
彼は契約を犯す者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは、
堅く立って事を行なう。
民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。彼らは、長い間、剣にかかり、
火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。
彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧言を使って思慮
深い人につく。
思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白
くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである。

私たちはここで、「荒らす忌むべきもの」が据えられているまさにそのとき、「自分の神を知る人たち」は、堅く立って事を行なう」ということがわかる。真の戦士たちのように、「自分の神を知る人たち」は、戦いの音を聞いて逃げたりはしない------それに向かって駆け込むのだ!主は、かつてこの地上に存在した中で最高の霊的戦いの戦士たちの世代を建て上げておられる。ダビデの心をもった何万もの人たち、エリヤよりもさらに力ある何万もの人たち、バプテスマのヨハネの説教の油注ぎを受けた何万もの人たちが出てくることだろう。彼らは困難から逃げることをせず、逆に困難に突き進んで行く。「自分の神を知る人たち」は、隠れていない。むしろ、私たちの時代の大いなる闇に大胆に立ち向かうようになる。そして、この闇は、終わりの時には、すべての時代を通じて最大の闇となっていくのである。
倒れる者も出てくるし、死ぬ者も出てくるであろう。ヨルダン川を渡るという前号のメッセージでも触れているように、私たちが神のみこころだけを行なって前進している間、その周りで多くの人々が亡くなっていくのに慣れなければならないだろう。

私たちには揺り動かされることのない神の国がある。その神の国の上に建てられたものと、今の邪悪な時代のシステムの上に建てられたものとの違いが、これから先、ますますはっきりしてくるだろう。「自分の神を知る人たち」は、神がすべての力と権威と主権の上におられる方だということを知っている。あらゆる状況下で、主にとどまっている人たちは主の権威を行使していくようになり、それによって地上のどんな状況も変えられていくだろう。

私たちには恐れ自体以外には恐れるものはない

悪魔は、人々をコントロールするのに恐れを用いるが、主を知る人たちは、信仰によって生きる。悪魔は、恐れや恐怖を用いて、大勢の人々を奈落の底に追い集めようとしている。箴言4:18~19で与えられている約束と警告はこうだ。
義人の道は、あけぼのの光のようだ。
いよいよ輝きを増して真昼となる。
悪者の道は暗やみのようだ。
彼らは何につまずくかを知らない。

義人の道を歩いている人たちは、その道でいよいよ光が輝いて明らかにされ、確信をもって歩けるようになる。ますますはっきり見えてくるからだ。この先何が起きてもけっして驚かないようにすること-----それが私たちのゴールとなるべきである。なぜなら、私たちは見えることを可能にしてくれる光にとどまっているからだ。けれども、悪者の道を歩いている人たちは、目に見えないものにつまずくようになる。

ありそうにない提携

ニュースメディアは、この時代の最強のテロリストだと言える。現在の世俗的なメディアは恐れと悲運を食い物にしており、どうしてもそこには欺きが入り込む。必ずしも意図しているわけではないのに、その性質上、そうならざるをえないのだ。たいした話題がない時は、どんなささいなことでもセンセーショナルに取り上げようとする。そうでなければ、だれもその新聞や雑誌を買わないし、番組を見ないからだ。
たとえば、2、3年前のことになるが、他にビッグニュースがなかったために、サメによる被害がメディアの関心を集めたことがあった。それがあまりに誇張して取り上げられたため、恐れた何万という人々が海に行くのを控えてしまい、その年は多くのリゾート地に深刻な被害をもたらした。しかし、実際には、その年のサメによる被害はいつもの年よりも少なかったのである。海に行く途中の車の事故による死者の数の方が、サメや他の原因による溺死者の数をはるかに上回っていたのだが、そのことを言う者はだれもいなかった。もし本当に安全でいたかったら、車に乗ってはいけなかったということになる!
同様に、わずか二回の祭日の週末で起こる車の事故で死亡するアメリカ人の数は、今までのイラク戦争における死者の数よりも多いのだ。実際、私は軍に入隊していた経験があり、どれだけの隊員が任務についていないときに車の事故で亡くなるのかを知っているので、これらの兵士たちが母国で車を運転している時よりイラクにいる方が安全であるかどうかを調べてみるのは、興味深い調査になるだろう。私はイラクの方が安全だと言っているわけではないが、たとえ危険だとしても、バグダッドをパトロールしている方が合衆国内でドライブしている時よりもはるかに危険だということはなさそうである。

テロというのは人間がなしうる最も極悪非道な行為の一つであるため、最近このように注目されているのは、当然といえば当然だろう。とは言え、脅威ということに限れば、テロリストの手にかかるよりも、車でスーパーに買い物に行く途中の事故や雷に打たれて死亡する方が、はるかに確率として高い。間違った事を恐れてそれに多くの時間やエネルギーや資産を費やしてしまい、それよりもはるかに危険な事に対しては無防備な状態になるということが時々ある。
メディアは、伝える内容やその伝え方によって、事実に基づいたものにもなり得るし、人を欺くものにもなり得る。伝える側は、自分たちはニュースを伝えるだけで、解説するわけではないと主張するかもしれないが、それは視聴者の知性を侮辱することであり、その言い訳はもはや通らなくなっている。半世紀前、ジャーナリストにはあらゆる職業人の中でも最大の敬意が払われていた。ところが、ニュースをすぐにセンセーショナルに取り上げようとする姿勢や、メディアの冷笑的な姿勢のために、ジャーナリズムに対する信頼が損なわれてしまった。今では、ジャーナリストというと、弁護士(法律家)や説教者よりも信頼できない者とみなされるまでになった!
もちろん、弁護士も同様に評判を落としてきたし、最近ではクリスチャンのリーダーに対する信頼も損なわれている。この三者ともが信頼を損なったが、その原因はみな同じだ。すなわち、事実の歪曲、センセーショナルに取り上げようとする姿勢、誠実でない態度である。こうした態度はごくわずかな者にしか見られなかったのかもしれないが、その影響は全体に及ぶことになる。社会秩序に測り知れないダメージが加えられてきた。それは、まさにこの三者の信頼が損なわれたためであった。来たるべきものに備えて、この三者の誠実さと信頼とが回復されなければならない。
この先、最高レベルの誠実さと信用を併せ持ったメディアが必要である。そのメディアは大災害の時にはきわめて重要であり、人々やそうした状況を救援するうえで通常大いに益となっている。もし、メディアがハリケーン・カタリーナの脅威についてあのように警告を与えていなければ、そして災害直後にもあのようなめざましい救助の働きをしていなければ、この嵐でさらにどれほど多くの犠牲者が出ていただろうか。こうした場合、ジャーナリストが多くの場合最大のヒーローとなる。

弁護士も、これから先、秩序の維持や回復のためにきわめて重要な存在になるだろう。家族やビジネス、政治にかかわる問題を解決するにあたって、彼らの助けはきわめて重要なものとなってくる。

また、誠実さと正確さが試されて信頼できる者とされた預言者も必要になってくる。事をセンセーショナルに取り上げたり、粉飾したり、利己的な目的のために自分が得た情報を用いたりせずに、はっきりと聞き、はっきりと見、はっきりと語る預言者が、私たちには絶対に必要である。真実こそがキリスト教にとって欠くことのできない最高のものであり、理由はどうであれ、真実を曲げるようなことがあってはならない。神の言葉のよき管理人として、忠実で、清廉潔白で、信頼できる人々が将来についての情報を扱うことになるだろう。彼らの預言は、これからの時代には今まで以上に非常に価値あるものとなるからである。

しっかり立っているものの上に立ちなさい

私たちには揺り動かされることのない神の国がある。だれがその国の国民であるかは、ますますはっきりしてくるだろう。やがて、彼らは、将来に向かって大胆に確信をもって立っている唯一の人々ということになる。この時代に関しては、主イエスご自身の預言も明らかにしているが、私たちはいまだかつてこの世の中が経験したことのないような最大の苦難の時代を迎えようとしている。けれども、よいことは、もし、私たちが揺り動かされることのない神の国の上に人生を築いて来たのであれば、来たるべき苦難を生き残れるだけでなく、備えをしていなかった人々を助けるようになるのはもちろんのこと、敵に打ち勝ち、栄えるようになるのだ。実際、これが教会がヨルダン川を渡り、約束の地を所有し始める時なのである。

現在のこの世のシステムは、揺り動かされ、崩壊していく。このしるしとして、地震や嵐といった自然災害がますます頻発するようになり、その規模や被害の記録を次々と塗り替えていくだろう。神を抜きにしてやっていけるという考えを捨てなかった人々も皆、それが不可能だということがわかってくる。「福音に従っている」人々は、自分たちを取り巻く世界が崩壊していくのと同時に、ますます自分たちが光り輝いて繁栄していくのを知るようになる。私たちはこのことを恥じてはならない。これもまたさばきの一部だからだ。けれども、私たちが繁栄するのは、私たちが贅沢に暮らすためではなく、絶望的な人々を助け、神の国が来るための道備えをするためなのである。

ヨシュア3:16に、ヨルダン川の「上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツアレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち」と言われている。この箇所は、ヨルダン川の水は「アダムのところまでずっと後退して」とも訳すことができる。
この小さな町が「アダム」という名前であるのは、偶然でも何でもない。これは、神の民がヨルダン川を渡り始めるとき、私たちは神から相続するようにと約束されたすべてのものを所有し始め、死はアダムのところまで後退するという預言であったのだ!
これは、アダムとエバが犯した最初の罪の結果としてもたらされた死のすべてがアダムまで逆戻りするという意味である。それこそが福音だが、実際に起こることは、私たちの理解をはるかに超えたすばらしいものとなるだろう。今がその時、今日が救いの日なのだ!今日この日、私たちは決して揺り動かされることのない神の国で生きることができ、必ず勝利するのである。今日この日に、いのちの木を選び取ろう。そうすれば、永遠に生きることになるのだから。

まとめ

テロ行為さえもニュースの片隅に追いやってしまうような自然災害と災禍が来ようとしている。私たちはこれらのものを恐れる必要はないが、慎み深くして、それへの準備ができていなければならない。今は、自分たちの家族や教会、住んでいる町のために祈り始める時である。今は、霊的な支配権を行使して、天を閉ざすことによって地を閉ざしたり、天を開いて地上に解き放ったりする時である。

クリスチャンが陥りうる最悪の状態はなまぬるさである。これから数年のうちに押し寄せて来る苦難の波によって、教会からなまぬるさが取り除かれるだろう。しかし、今なまぬるさを悔い改めるなら、その方がはるかにいいのだ。私たちの神は焼きつくす火であるから、真に神を知っていながら神と神の目的のために心が燃やされないでいるということはありえない。神のために燃やされていない人々は、恐るべきあざむき(惑わし)の中にいるのであって、この世の心遣いや心配といういばらにふさがれて実が結べなくなっているのだ。

私たちに与えられているすばらしい約束の一つは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて,これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:25~34参照)という約束である。もし、私たちがすべての決断において神の益を優先順位の第一にするなら、神も私たちの益を第一にしてくださる。神は、私たちが自分で自分の面倒をみるよりも、はるかによく私たちの面倒をみてくださるのだ。

この時代に、主がこの地上に対してもっておられる最大の関心と目的は、ご自分の花嫁である教会を建て上げることである。教会は、今の時代のこの地上における神の国であり、神の国がこの地上に確立されるための器となる。もし私たちが神の益を第一にしているなら、よりよい仕事を得たからという理由でその仕事場の近くに引っ越すのではなく、そこに自分たちの所属すべき教会があるからという理由で家を引っ越すようになるだろう。繰り返すが、もし私たちが神の益を第一にするなら、私たちが自分で自分の面倒を見るよりも、はるかによく神が私たちの面倒をみてくださるのである。

あの暗雲が迫って来ている夢は、私たちが神の家、すなわち神の教会にいることがどれほど重要なことかという、生死にかかわる決定的なメッセージを伝えていた。今この時点では、教会はまだ整えられておらず、多くの点で混乱状態にあるかもしれない。けれども、やがて立ち上がり、本来の召しである救いの要塞に変えられていくのだ。あなたはこの教会の一員となるように召されている。今、教会に逃げ込みなさい。洪水が来るまで待っていてはならない。主のみからだの中に自分の場所を見つけるのだ!(終わり)

この原稿を訳していただいた渡橋喜代佳先生はリック・ジョイナー師の本「天国からのメッセージ」(マルコーシュ出版)を訳された方です。今回私たちのミニストリーにご協力いただいて心から感謝申し上げます。坂 達也

ーーーーーー引用終ーーーーーーー

どう思われますか?

私達は全員罪を犯しており、神の裁きにふさわしい者達です。しかし、父なる神様は彼の独り子を信じる者達のための裁きを満たすためにキリストを送られました。創造神かつ永遠の神の息子であるイエスは、罪のない人生を送られたのですが、私達が受けるはずだった罪の罰の身代わりとして死んで下さったほどに私達を愛しておられます。彼は葬られ、聖書に書かれている通りに死人の中から甦られました。もし、あなたがこのことを本当に信じ、心から信頼するなら、イエスのみをあなたの救い主として受け取り、「イエスは主です」と宣言して下さい。そうすれば、裁きから救われ、天国で神様と共に永遠を過ごすことになります。


あなたはどう応答されますか?

もしあなたがクリスチャンではなく、今クリスチャンになりたいのであれば、ただこう言って下さい。「主イエス様、私の罪を赦して下さり感謝します。今日、私はあなたに従うことを決めました。私をあなたの家族の中に受け入れて下さい。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

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詳しくは以下のリンク先を参照して下さい。
👉【福音】新しく生まれ変わる!(新生の祝福)
https://note.mu/risingdestiny/n/nb11945f61b7a

永遠のいのちを受け取る(4:56)
https://youtu.be/m13Yae40ot8

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【預言の学び】預言とは&個人預言を受ける際の注意点(改訂版)
イエス様もなさった個人預言 の聖書の実例の解説、現在の個人預言の映像リンク集付き
https://note.mu/risingdestiny/n/n916fab966ed5

【なぜ、ライジング・デスティニー(シャイニング・デスティニー)を始めたのか(過去20年間の日本宣教史年表付) 】
【The Reason We started Rising Destiny (Shining Destiny): The History of Japanese Mission in the Past 20 Years】
https://note.mu/risingdestiny/n/nc415e4303df2

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【教理の学び】三位一体(トリニティ)と現代の異端
https://note.com/risingdestiny/n/n534048dc9cd1
・三位一体(トリニティ、the Trinity):正統なキリスト教の教理
あなたを永遠に愛しておられ、あなたを唯一無二の存在として創造された、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は、まことにして永遠なるただおひとりの神(創造主)である。父、御子、御霊は、それぞれお互いに永遠に愛しあっておられ、同時にただ一つの神である。
・全能神教会(全能神)The Church of Almighty God:中国のカルト・異端。キリストが女キリストとして中国人女性として再臨したと説く。全能神の教祖・趙維山(ジャオ・ウェイシャン 1951年~)は自らを「大祭司」と唱え、大学受験に失敗し精神的に病んでしまった女性・楊向彬を「女キリスト」に祭り上げた。彼女は趙維山の愛人となり、後に妻となる。暴力、洗脳、ハニートラップ、スパイ活動など違法かつ強制的な布教活動を行なう。入会を断る、脱会を希望すると、「護法隊」と呼ばれる実働部隊が出動し、耳を削ぎ落とすなどの残忍行為を行なう。実際に死に至ったケースもあるという。2014年、中国山東省のマクドナルドで全能神信者が布教活動をし、勧誘拒否した女性を店内でモップの柄で撲殺する事件も起こっている。(2014年山東招遠カルト殺人事件)趙維山夫妻は、中国政府から弾圧を受け2000年頃に米国に逃亡している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/2014年山東招遠カルト殺人事件
フェイスブックグループ「キリストの羊」、フェイスブックページ及びブログ/HP「聖書の部屋」は一見するとそれと分からないが、「全能神」のサイトなので要注意。全能神信者がよくSNSでシェアしている。全能神信者は、人種(例.中国人が日本人に成り済ます)や性別を偽ってSNSアカウントを大量に作って勧誘活動を行なっている。noteの「高橋 智也」氏、「ひで ひろ」氏は全能神なので注意。
👉異端カルト110番
https://cult110.info/category/未分類/zennoushin/

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