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「Tikkun の回復主義神学に基づく声明」2018 年 8 月

「Tikkun の回復主義神学に基づく声明」2018 年 8 月

本論文は Ariel Blumenthal が執筆し、Dan Juster、Asher Intrater、Eitan Shishkoff、 Ron Cantor、Guy Cohen そして Gil Afriat がこれを承認した。(翻訳)行澤一人

序章

Tikkun ミニストリーは、Dan Juster、Asher Intrater そして Eitan Shishkoff のパートナーシップとして約40年前に始まりました。このリーダーシップチームには、初めから Michael Brown、Paul Wilbur、David Rudolph そして Don Finto が加わっていました (全員が今日もそうであるというわけではありません)。
Tikkun の幻は、初めから「イスラエルと教会の回復」という包括的なものです。そのための中心聖句は、使徒 3:20−21 におけるペテロの第二の説教です。

「20 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。21 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで 、必ず天にとどまることになっています。」(新共同訳)(下線訳者)1。

1 ジェームズ王欽定訳によれば、この箇所は次の通り訳されている。
19 Repent ye therefore, and be converted, that your sins may be blotted out, when the times of refreshing shall come from the presence of the Lord;
20 And he shall send Jesus Christ, which before was preached unto you:
21 Whom the heaven must receive until the times of restitution of all things, which God hath spoken by the mouth of all his holy prophets since the world began.(下線訳者)
日本語訳と英語訳では、19 節と 20 節の区分の仕方が、ずれていることに注意されたい。


ヘブル語訳新約聖書においてこの「(万物が)新しくなる」〔(ギ)アポカタスタシス〕を示す言葉は Tikkun です(以下、この言葉を「回復」と訳します。訳者)。文脈上、ペテロがここで語っているのは、明らかに旧約預言に従ったメシアによるイスラエルの回復についてであり、五旬節/ペンテコステの日に誕生したばかりの新約教会の回復のことではありません。もっとも私たちは、初めの数世紀以来、暗黒の時代を経験してきた教会には、今まで多くの領域で回復されるべき必要があったことを信じます。それゆえ、この回復もしくは Tikkun というテーマは、初めから私たちのミニストリーの旗印でありました。
使徒の働き 3:21 を学ぶとき、一つの疑問が脳裏に浮かんできます。「回復」というとき、ペテロや初代教会の使徒たちは、これがイェシュアの再臨「までに」起こることだと信じていたのでしょうか、それとも主イェシュアの再臨「時に」起こると信じていたのでしょうか。この問題は終末論における大問題として多くの論争を引き起こし、教会に分裂さえ生み出してきました。神の御国の広がり、旧約聖書の成就、イスラエルの回復、大宣教命令の達成等々について、どこまでがキリストの再臨までに実現することを我々は期待すべきでしょうか?そしてキリストが再臨され、地を治め、支配するときに起こるべきものとして、どれくらいの部分が残されているのでしょうか。確かに最近の Tikkun に対する、イスラエル人リーダーからの批判のおよそ半分は、この終末論的成就のタイミングとその条件に集中しています。そしてあと半分の批判は、教会論、特にエペソ書 4:11 に対する我々の理解と、今日における使徒と預言者の活動についてであるように思われます。


興味深いことに、使徒 3:21 のギリシャ語は、約束された回復の正確な「時点」(timing) について明らかにしていません。それゆえ、私たちの翻訳も、「万物が新しくなるその時まで 」(until)という語を使用して、意図的に曖昧にしています。ギリシャ語の意味するところは、この回復(少なくともその大部分)は、キリストの再臨へと至る「ある期間(period)も しくは時期(times)」に起こる-すなわち再臨の「前」(before)あるいは再臨に「際して」(at)起こる、と解することが可能です。使徒 3:21 および他の多くの聖句に基づいて私たちが理解するところは、回復の「時」は再臨の前か、それとも再臨の時のいずれか、という問題ではなく、そのいずれもが正しいということです。別言すれば、キリストの再臨前に起こると想定されることは多くあり、そこには再臨の「条件」も含まれているのですが、完全な回復は再臨に至って始めて実現されるということです。

私たちは、王がここエルサレムから治め、統治するようになるまで、王国(御国)が完成されるのを見ることはないでしょう。その意味で、私たちは、王国(御国)がこの時代に教会を通して完全に確立され、これが再臨のイェシュアにそのまま引き渡されることを信じる後千年王国説(post millennial)もしくは統治主義者(dominionist)には組みしません。かえって、私たちは、初代教会が有していた歴史的な前千年王国説(pre millennial)を固く信じています。しかし、なお、この時代において、ある程度までは御国が完成へと向かうことに対する約束と明白な聖書的な期待が示されていることも事実です。では、今の時代に、どれくらい完成へと向かうことを私たちは期待すべきでしょうか。どこまでの完成を私たちは飢え乾いて求めるべきでしょうか。30%、50%、あるいは 80%でしょうか。数を示すのは困難ですが、後に具体的な論点について回復主義神学の立場から説明するように、私たちは、主が来られる日まで、信仰と聖霊により、御国の完成に向かって、能(あた)うる限り - すなわち主が私たちキリストのからだによってもたらすことを選ばれる限りの目一杯 を求めて戦うべきであると信じます。

(中略)

次に私たちは、Tikkun の回復主義神学におけるイスラエルと教会の双方に関する論点―その多くが重なり合うーを見ていきます。まずはイスラエルにおけるほとんどのメシアニックジューのリーダーにとって異論のない点から始めて、次に最近の対論の中で特に争点となってきた論点に移りたいと思います。


第1章 イスラエルの物理的・霊的回復

A. ユダヤ人が父祖たちに約束された地に集結すること−イスラエル国家の物理的回復
私たちは聖書的なシオニストであり、現代における、この約束の地へのユダヤ人の集結は聖書預言の成就であることを恥じることなく信じています。また私たちは 1948 年にイスラエル国家が再建され、多くの戦争とその他の挑戦をくぐり抜けてなお存在し続けて今日の繁栄を見ていることは、聖書預言の成就が大いに加速していることのしるしであり、主の再臨が近いことを示すさきがけであると信じています。

B. イスラエルの霊的回復―離散地における、とりわけイスラエルの地におけるレムナ ントとしてのメシアニックジューの復活
私たちは、ユダヤ人がイエスを信じ、今日メシアニックジューの共同体−救われたイスラエルのレムナント−がリバイバルされ、成長していることも、同様に聖書預言の成就であると信じています。ローマ書 11:11-15 において使徒パウロは、将来におけるユダヤ人のリバイバルを予見して、それが「なおさら」「死者の復活」を世界にもたらすと述べています。使徒の働きを見ると、1 世紀のエルサレムにおいて、ユダヤ人の間に大いなるリバイバルが興されたことが分かります。しかし、最終的に、イスラエルの多数派―とりわけそのリーダーたちは、イェシュアを拒絶してしまいました。 この拒絶を使徒パウロは「つまづき」「背き」と呼んでいますが、このことが神のご計画の奥義において、実際に「福音の豊かさ」となって諸国の民にもたらされたのです。 その上で、パウロは、12 節と 15 節において、将来のユダヤ人のリバイバル、すなわちユダヤ人が「受け入れられること」と、諸国民のための一層偉大な福音の豊かさに結実する「完成」を見始めていました。そしてユダヤ人が受け入れられ、完成されると、遂には、1 世紀に見られたよりも一層偉大な世界大のリバイバルを呼び覚ますことになるのです。私たちは、このことを、今日、中国、ネパール、アルゼンチンなど、教会史上前例のないほどのスピードと規模のリバイバルを経験した国々において認めることができます。私たちは、「より一層偉大な豊かさ」が諸国民の間に注がれている、まさに只中に生きていることを信じているのです。


(中略)

C. エルサレムの回復
私たちはこのことを、イスラエルの物理的回復の一部として論じることもできるのですが、聖書は確かにダビデの子の王国における「大王の都」(詩篇 48:2)に特別な地位を与えているので、それ自体を独自の範疇で論じる価値があると信じます。6日戦争の結果、エルサレム旧市街もしくは東エルサレム(聖書におけるエルサレムの大部分)がマカバイの時代以来始めてユダヤ人の管理下に帰せしめられたことは聖書の預言の成就であると信じます。新約聖書では、このことはイェシュアがルカ 21:24 およびマタイ 23:37-39 において宣 告されたことと関係しています(さらにはイザヤ 62:1-4、58:7-10 を参照のこと)。 私たちはイスラエルの物理的な回復が聖書に記された約束の地において起こる必要があったのと同様に、エルサレムを首都とすることなしにイスラエルの聖書的な回復は完成されないと信じています。

D. 小括
私たちは、イスラエルとエルサレムの回復についての以上の諸点は、多数のイスラエルのメシアニック・リーダーたちにとって問題の種になるものではないと信じています。私たちはまた、そのほとんどのリーダーが、これらのことを主の再臨前に起こるべき条件(pre- conditions)と見ていることと信じます。

(中略)

しかし、このすべてが、先に使徒の働き 3:21 に関して問うたところの終末論的な難問に繋がっているのです-私たちは、主が再臨されるまでに、イスラエル、エルサレムそしてメ シアニックジューの信仰がどの程度まで回復されるのを見ることを期待すべきなのでしょうか。今日、イスラエルには約 700 万人のユダヤ人が住んでいますが、北米にはまだ 600 万人のユダヤ人がいます(加えて、数十万人のイスラエル人がイスラエルから逆にアメリカに移民して、NYやマイアミ、そして南カリフォルニア地域に住んでいます)。また数十万人 のユダヤ人がなおフランス、旧ソ連諸国、南米、エチオピア等々に暮らしています。そこで、 ユダヤ人の帰還(Aliyah)が完成されるために、どれくらいの民が帰還することを祈り、またそのために働くべきなのでしょうか。
確かにほとんどのイスラエルのメシアニック・リーダーたちはユダヤ人のイスラエル帰 還は「神から出たこと」であり、「預言の成就」であると信じていますが、同時に、メシアニックジューがどれくらいの信仰、時間、エネルギーそして資源をより成功的な帰還のために捧げるべきであるかということについて意見(及び召命感)の違いがあり得ることにも同意しています。それは「イスラエルはみな救われる」ということと同じ意味ではないのでしょうか(ローマ 11:25-26)。私たちは主が実際に再臨するまで、もしくは再臨の直前まで、「みな」という部分は起こらないことに同意しないのでしょうか(ゼカリヤ 12:14)。もちろん、そうだからと言って、主の再臨までは、さほど伝道の務めに励まなくてもよいなどとは、私たちのうち誰も考えていません(そう願います!)。
エルサレムの回復についてはどうでしょうか。私たちのほとんどが、最近、エルサレムをイスラエルの首都と認めたトランプ大統領の言明と、それが諸国にもたらした反響(エルサレム問題をどのように扱うべきか)を、重要な預言的出来事だと信じているのではないでしょうか。しかし他方で、主が再臨されるまでは、イザヤ 62:1-5 の 100%の成就はないことも私たちは知っているのです。
このように私たちは、「回復主義」に関わるあらゆる点について、御国の現実が「すでに(成った)」と「未だ(成らず)」の間にあるという「逆説の奥義」の只中にいるのです。もしあえてパーセンテージでこれを示すなら、メシアニックジューの主流とイスラエルを愛するクリスチャンリーダーたちのスタンスは、主の再臨前に私たちが見ることを期待すべき千年王国到来前におけるイスラエル/エルサレムの回復の程度を示す数値として 20%から 80%のスペクトルの間にあるでしょう。また、数は非常に少ないものの 0%(現代イスラエルに暮らすことは歴史的に見ても非常に困難なことであり、期待値 0 というのも信じられ る)の地点に立つ者もあれば、イェシュアが地上において戴冠されることなく、教会が完全 に世界を治めることを信じる統治主義者もしくは後千年王国説を信奉する者であれば、100%という強硬論に立つでしょう。


第2章 教会の回復

教会の回復というテーマに対する Tikkun の見方は、福音主義的プロテスタント、そしてペンテコステ/カリスマ的キリスト教に属する様々な歴史的運動圏にあるイェシュアの弟子たちと多くの点で共通しています。すなわち、初期の数世紀の後、教会は長い停滞と政治化そして低俗化の季節へと入っていきました。もちろん、その中にも希望の光はいつもあったのですが、私たちが信じるところによれば、新約教会の偉大な回復のプロセスは、「宗教改革」と聖書の権威へと立ち返りとして始まったのです。この教会の回復のプロセスも、イスラエルの回復の場合と同様、完全なものではなく、究極的には主が再臨され、死者がよみがえり、主と共に治める千年王国の統治が始まるまでに全うされるものでないと私たちは信じています。それでも、私たちは、次に示す二つの聖書的な領域において、信仰と、聖霊と共なる働きにより、主がお許しになる限りの満たしと回復を追い求めて戦うべきものであると信じているのです。

A. メシアのからだ/教会にある一致
ヨハネ 17 章に記されたイェシュアによる「大祭司の祈り」において、主は何度もそこにいた弟子たち、そして彼らの言葉によって信じることになる私たちすべてのために一致祈られました(11,20 節)。主はこの一致を、キリストにある父の栄光が私たちにも現わ されることと、父がイェシュアを「遣わされた」ことを世が知るに至ることの二つの効果に 結び付けて祈られたのです(21-23 節)。イェシュアのこの最も中心的な祈りによれば、私 たちの一致は、みからだなる教会において父の栄光を見ること、そして世界宣教達成のため の鍵であることが分かります。この祈りは、おそらく父の御座の前にある、イェシュアと聖霊によるみからだなる教会のためのとりなしにおいて、過去 2000 年間ずっと、そしてなお今も中心的なテーマなのです(ヘブル 7:25、ローマ 8:26-27)。
私たちが強く信じていることは、このイェシュアと聖霊による祈りは、主の再臨前に、相当のレベルにおいて答えられるはずだ、ということです。それは、もしこのような一致が主の再臨時にしか実現されないものだとしたら、イェシュアはヨハネ 17 章において何のために執り成しの祈りを捧げたのか、またローマ 8 章において聖霊は何のために執り成しの働きをするのか、意味をなさなくなるからです。もし、すべてが主の再臨時にのみ回復すべき ものであり、そこに至る直前まで微塵も前進しないのだとすれば、主が、あるいは私たちが執り成しの祈りを捧げることに何の意味があるでしょう。「御国をきたらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という「主の祈り」は、再臨を求めるためだけの祈りなのでしょうか。そうではなく、「今、ここに」御国を求める祈りなのではないのでしょうか。
Tikkun は、キリストのからだの一致を信じ、またそのために献身しています。この一致は、聖書信仰と言い得るための基礎的要件にもとづいて妥協なく建て上げられなければなりません。もちろん、現状は、多くの伝統的な教会のみならず、22000 以上あると言われるプロテスタント諸派も、みな聖書を自らの権威であると主張しています。私たちを批判する方々の中には、私たちとの対話を誤解して<私たちは、すべての教会が一つの組織もしくは統治の下に来なければ、この一致は実現されないと信じている>と当て推量する方がおられますが、もちろん、私たちはそんなことは信じておりません。

(中略)

B. エペソ4:11-13に従った、みからだなる教会の新約的リーダーシップの回復
ほぼ 40 年にわたって、Tikkun はエペソ書 4:11 に認められる教会のリーダーシップについての「5 役者」モデルを理解し、これを適用しようと努めてきました。私たちはこの点において、世界中で増え続けるペンテコステ・カリスマの諸教会・教派・運動と同じであります。「5 役者の回復」は、世界的な視野で教会を見るとき、最も急速に成長している領域の一つでありますが、同時に最近の論争のほとんどがこの点に集中しているため、以下では十 分な紙幅を割いて私たちの理解についてご説明申し上げようと思います。

私たちに対する主要な議論/批判は二つであるように思います。第一は、使徒や預言者はもはや存在しないという原理を信奉される方々からのものであり、第二は、使徒や預言者が継続して存在し得ることに理解を示しながら、私たちが何か使徒や預言者の表現において推量的もしくは不適切に行動していると感じる方々からのものです。

α 使徒や預言者はもはや存在しないという見解について
Tikkun は、次のような要素を典型的に含む、いわゆる古典的ディスペンセーション主義による「終止神学」パッケージには同意しません。すなわち、(1) 2 世紀もしくは 3 世紀に新約聖書の正典化がなされてからは聖霊の力の賜物は「終止した」。(2) 同様に使徒や預言者 の存在や機能も「終止した」。(3) 大艱難前の携挙の原理。
(中略)
どんな聖書のテキストを解釈する場合でも、もっとも重要な作業は当該テキストの直近のテキストに当たってみることです。他のテキストあるいは他の作者から意味を拝借する前に、私たちはまずパウロのことばを通じて聖霊が何を意図されたかを知りたいのです。 この場合、それはエペソ4章11 節における使徒や預言者には継続的なリアリティがあるの か(あるいはないのか)についてです。

11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。エペソ 4:11-13(新改訳聖書第 3 版)(下線 筆者)2

2 11 And He gave some as apostles, and some as prophets, and some as evangelists, and some as pastors and teachers,12 for the equipping of the saints for the work of service, to the building up of the body of Christ;13 until we all attain to the unity of the faith, and of the knowledge of the Son of God, to a mature man, to the measure of the stature which
belongs to the fulness of Christ. (Eph 4:11-13, NASB【New American Standard Bible】)


どうでしょう。13 節において「ついに」(英語訳では、until)という言葉こそがこの議論を終わらせることになるのではないでしょうか。これは字義通りの意味であり、これを理解するために神学修士号や博士号は必要ありません。イェシュアが昇天され、聖霊を注がれたとき、そこには教会のリーダーシップの基礎としての5役者の賜物も含まれていました。その目的はすべての聖徒たちを奉仕の働きのために整え、訓練し、メシアのみからだを「建 て上げる」ためです。そしてこの5役者はいつまで必要とされるのでしょうか。キリストの からだを「建て上げる」ことの目的は何でしょうか。
ここでパウロが語っていることは、とても挑戦的なことです。彼は、これらのすべてのことは、私たちが「信仰の一致」と「神の御子に関する知識の一致」、そして「完全なおとな」 に達するまで続くべきものと記しているからです。それは、どれほどの一致でしょう。そしてどれほどの知識?どれほどのおとな?その程度は?そしてそれを図る基準は?そうです、 それはキリストの満ち満ちた身たけ ((ギ)プレローマ)と同じレベルだというのです。

ここで使われている「満ち満ちた」という言葉は、コロサイ 1:19 や同 2:9 において、イェシュアのうちに宿らせられた「満ち満ちた神の本質」というときと同じ言葉です。では、 父なる神の満ち満ちた本質は、どれくらいイェシュアに宿っていたのでしょう。もちろん、 100%です(私たちはイェシュアの神であられるご性質を完全に承認します)。つまりパウロは、ここで、キリストのみからだが、一致と神の御子に関する知識の程度において 100%に 達するようなときが来るということを教えようとしている(より本質的には預言している) のです。それは、キリストが完全であるように教会も完全になり、御子において御父が満ち 満ちているように、教会のうちにも御父が満ち満ちる、そういうときが来るというのです。

文脈上、聖書のこの箇所の論理の流れ(1-7 節における有名な「一致の宣言」から始まる)を追えば明らかですが、神の言葉によれば、5 役者の賜物の存在と働きは、この備え、建て上げ、一致、成熟が満ち満ちるようになるのを見るための中心にあることを教えています。5役者のうちの2つ(使徒と預言者。以下、同じ)は何となく消えていき、もはや私たちが 約束された満たしに向かうために必要でなくなる、あるいはその二つの務めは新約諸文書が正典化されると重要でなくなるということを示唆する箇所は、聖書中どこにもありません(強調筆者)。

(中略)

β 使徒や預言者は今日も存在し得るがその適用を疑問視する見解について
ここで私たちは現代における5役者についての私たちの見解と実践について説明したいと思います。初めに二つのことを指摘しなければなりません。第一は、過去 6 か月以上にわたるイスラエルのメシアニック・リーダーたちとのメールのやり取りや議論において、Tikkun に対してもっとも批判的である方々は、同じように使徒や預言者の回復を信じている様々な運動や組織と私たちが何年にもわたって関係している「はずだ」という想定に焦点を当てています。回復といっても、どんなことでも完全ということはありません。罪とプライドがはびこる世の常として、とりわけグーグルやユ―チューブの時代に、探そうと思えば、どこかに「異端的」と思えるような行き過ぎを見つけることは難しいことではありません。 それでも強調したいことは、私たちが使徒や預言者その他5役者の完全な働きの回復を信じているからと言って、それは回復主義者である他の方々の教えや実践のすべてを受け入れているのではないということです。現代における使徒を信じていると、ある著者やリーダーが言ったからといって、私たちが、その機能の仕方についてまで同じ理解をしているということではないのです。

(中略)

私たちの願いは、第一に、イスラエルにおける他のリーダーの方々との継続的な対話において、Tikkun に対する、この「関係しているから有罪」という論法を取らないでいただきたいということです。もし私たちが信じて、実践していることを知りたいのであれば、私たちが出版した本でも雑誌でもお読みいただければよいのであり、そのうえで、直接、私たちにご質問いただければありがたく存じます(同時に、私たち自身も決して一枚岩というわけではなく、Tikkun のリーダーの中でも意見の分布があることがお分かりになるでしょう)。その方が、イスラエルにおけるみからだの健全な一致のためにはよほど有益だろうと思います。今や、私たちについて他の方々が語っておられることや、あるいはインターネットや種々の文脈のあちこちから引っ張ってきた引用のつぎはぎを加工して、Tikkun の世界征服の陰謀を「暴露する」というような珍妙なうわさがまことしやかに語られているようですので!(訳者注:このような陰謀論は、かつてナチが利用した「シオンの長老の議定書」なる偽書と同じ程度において人種差別的悪意と虚偽に満ちたものであり、言い逃れ様のない反ユダヤ主義的言辞であると私は考える)。
第二に、私たちは、関係が持つ力を強く信じています。私たちはこの「関係性」こそが神のご性質の一部であると信じています。たとえば、ある Tikkun のリーダーが、完全ではなく(完全な者などいるのか?)、おそらくバランスと矯正を必要とするような会議やグループに参加しようと決断する時、どうやってそこに矯正をもたらすことができるでしょう。彼らのことをインターネットで全世界に晒して、批判するのでしょうか。そうではなく、愛と忍耐、そして相互の信頼関係を構築することによって、私たちは彼らに影響を及ぼすことができるのです。Tikkun のリーダーがいくつかのグループとの関係においてこのような方法 で成功した例は、近年においても複数認められます。

以下では、私たちが使徒と預言者及び5役者の継続的な機能について「何を信じ、何を信じていないのか」についてご説明していきましょう。


第3章 私たちが使徒と預言者について信じて「いない」こと

A.わたしたちはイェシュアの 12 使徒(あるいはパウロを含めて 13 人?)と同じレベルの権威を持つ使徒が再び現れるということを信じていません。同時代におけるモーセのように、イェシュアの使徒たちは、新しい契約についての神の言葉を受け、これを聖書に記録する責任が与えられていました。彼らは、「子羊の使徒」と呼ばれ、その名前が新しいエルサレムの土台石に永遠に刻まれているのです(黙示 21:14)。またモーセのように、ある決定的な時点において、この使徒たちの教えと戒めへの不従順は即座に死をもたらすほどでありました(民数記 15 章、使徒 5 章)。この理由から、私たちが彼らのこと(パウロも含む。なぜなら、新約聖書のほぼ3分の1の著者としてその役割は比類なきものであるから) を記すとき、それは大文字の A から始まる「使徒」(Apostles)を用います。それ以降においては、小文字の a から始まる「使徒」(apostles)しか存在しません。

B.私たちは5役者の使徒モデルを「王侯的」なもの(royal)として捉えることを断固拒否します。私たちは、古い格言の通り、「絶対的な力は絶対的に腐敗する」と信じています。私たちは、どのような言葉を使おうと、リーダーシップについて、ピラミッド型の位階構造を認めません。たとえ、「父」「牧師」「長老」「使徒」「司教」「ディレクター」「CEO」など、どのような呼称を用いようと、誰かがリーダーシップにおけるピラミッド構造の頂点に座り、他のリーダーたちに対して相互に仕えあうような関係に立たないのであれば、彼はエペ ソ 4 章や他の多くの聖書のメッセージを完全に見失っているのです。
神の御国のすべての働きと権威に関する核心と基礎は、イェシュアの次のみことばに認 められます。

「しかし、あなたがたは先生(ラビ)と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひ とりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの 父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだか らです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだから です。あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」 (マタイ 23:8-11)【新改訳第三版】

メシアのからだにあっては、位階秩序はなく、機能があるだけであり、働きや働き人があるだけです。私たちは何よりも一人の父を持つ兄弟姉妹であり、また同じ王に仕える同労者、謙遜な奉仕者であるのです。

C.私たちは Tikkun の使徒や預言者(あるいは牧師、教師、伝道者)が、私たちの働きの家族の外側にいる誰かに対して何らかの権威を有しているとは信じません!他の働きと同様に、使徒や預言者の権威も、その権威を受け入れる人々、また彼らを認める他の使徒や預言者に対してのみ有効なのです。それは牧師も同じことです。牧師は、自ら牧会する会衆に対してのみ一定の権威を持つのであり、他の牧師の牧会する会衆に対してはそうではないのと同様です。もちろん、牧師も、お互いに責任を負いあう牧師のサポートグループの一部になることはできるし、そこで自らの町や地域や国のためにより大きなビジョンで祈り合 い、協力する関係を深めることはできるでしょう。


第4章 私たちが使徒、預言者、そして教会政治について信じて「いる」こと

A.私たちは、教会は「指導的な長老」を含む長老たちによって治められるべきものと信じます(使徒 14:23、テトス 1:5、使徒 15 章)。そして指導的な長老の立場は永続的なものではなく、時間の経過とともに他の長老に交代され得るものであり、また必ずしも「牧師」と呼ばれる必要はないと私たちは考えます。長老たちの間においては、それぞれ誰が、教師、伝道者、牧師、預言者としてふさわしいかを認識することが重要です。さらに、もし誰かが牧師と呼ばれるにしても、それは永続的な称号ではなく、むしろ働きのための賜物と召しを認識するためのものです。パウロは、使徒であることを自らの称号(Paul the Apostleもしくは Apostle Paul)として主張したことはなく、むしろ使徒の一人として(Paul an apostle)自らを表しました。
使徒的リーダーは、教会政治に関しては、地域教会の長老に対する権威を持っていません。使徒は地域教会の長老たちに仕え、彼らを支え、強めることを自らの務めとするのであり、彼らを支配するものではないからです。使徒による霊的権威は、むしろ地域教会の長老たちを助け、見守り、また彼らの信頼性を担保することにあります。それゆえ、使徒は、ある長老の不適切な行為についての申告に対処し、また地域教会の長老たちの間に生じた深刻な対立や不一致を解決することを助けるために地方教会に赴くのです。極端な場合には、使徒は、地域教会におけるリーダーの職務を解く権威を有します(幸い、Tikkun に属する教会については、このような措置が必要となったことは一度もありません)。

B. 私たちは地方教会やそのリーダーは孤立するのではなく、共通の長老のリーダーシップの下で、相互に信頼性を高めあうべく繋がることが本来の姿であると信じます。この交わりに責任を負うリーダーが、特に諸教会の一致を保つことに心を砕いているのなら、彼らこそ使徒と呼ばれるにふさわしいのです。そして彼らのリーダーシップは、5 役者のレベルにおける預言者と共に働くとき、この地に神の御国を戦略的に前進させるのです。
このようなリーダーが常に教会を導いてきました。私たちは、使徒とは 5 役者というチームのリーダーであり、パウロ – 私たちが聖書から最も多くの情報を得られる人物である – のように、他の 4 つの職務についての感性と賜物を十分に備え、このチームを効果的かつダイナミックにまとめ上げることができるような者であると信じています(もっとも、私たちはヨハネ 17 章やエペソ 4 章における一致の意味するところは、すべての教派や地方教会が使徒 15 章におけるエルサレム会議のように「一人の」長老の指導の下に結集されなければならないということだとは信じていません。事実、イスラエルのような小さな国またそのキリストの体においてさえ、少なくとも 4 ないし 5 つの非常に独立した地方教会のネットワ ークが存在します)。

C.使徒とはまず何よりも地方教会もしくはあらゆる種類のミニストリーの開拓者であります。ペテロとヨハネがサマリアに遣わされたことに、この特徴を見ることができます。また、パウロが、「遣わされた者」(宣教師)として、福音が一度も語られたことのない町々を巡り、そこで魂の初穂を獲得するばかりでなく、彼らを新約的共同体にまで建て上げていったことこそ、その最たる例です。
さらに長老たちを育成することも、使徒が果たすべき機能です。だから、パウロがテトスに対してあらゆる町に長老を任命するように命じたことは使徒的機能であったし、使徒 14 章 23 節において描かれているパウロとバルナバの働きにおける重要な使命の一つがまさにこれでした。

D. 私たちは、リーダーシップのあらゆるレベル(長老にしろ、5役者の務めにしろ)において、互いに仕えあうことの価値こそが、謙遜を保ち、成功に至るための鍵であると信じています。罪とプライドの故に、リーダーシップにはいつもピラミッド構造になってしまう危険が伴っており、ややもすると最も力が強かったり、賜物に非常に恵まれていたり、あるいは最年長の者が位階秩序のトップに立って肉の方法で権威を行使するということがおこりかねません。イェシュアこそ私たちの「偉大な使徒」(ヘブル3:1)、主の主、そして私たちが絶対的に服従すべき唯一のお方です。だから、天の下にあっては、私たちリーダーはみな誰かをピラミッドの頂点に押し上げないような仕方で、互いが互いに従うようにしなければなりません。だからこそ、Tikkun において、Dan、Asher、Eitan は、今日に至るまで一緒に歩んでこれたのです。彼らは、それぞれが最も強みを持つ領域において互いに従うことを 学んできたのです。
世界中で、私たちは、この原則を理解し、実践する使徒的チームが、健全かつバランスのとれた働きをしているのを見ます。このような態度は、妬みや競争心ではなく、かえって互 いに協力しあうことで、お互いが自らの務めを十全に果たすことができるようにします。こうして互いに共に歩むことで、5 役者の務めは、偉大な使徒であり、預言者、伝道者、教師、そして牧者であられるお方 – イェシュアを十全に現すことができるのです。

E.互いに従うことと霊的権威について。
私たちは、地方教会、ことに現地の人々から成る(indigenous)教会には、当該地域に対して、霊的及び「地上的な」領域の双方における固有の権威があると信じています。例えば、もし私たちが日本における宣教もしくはその他のどんな働きについてであれビジョンを持った場合、最初に既存の日本の教会と何らかのコミュニケーションを持ち、協力し、そして彼らに仕えて、彼らから祝福を受けることなしに、やみくもに日本に行って自分たちの働きを始めるということはしません (もちろん、未だ福音が語られたことも教会もない未伝地 もしくは民族グループであれば当然違った話になります)。まずは日本の教会の歴史、必要、希望、そして戦略に従うために何らかの努力がなされなければなりません。
同じことはイスラエルにも当てはまります。2 世代、いや 1 世代前でさえ、ユダヤ人教会やアラブ人教会は、非常に小さくて、ほとんど見えないような存在でした。しかし、今日では、そうではありません。イスラエルと諸国民双方の残れる者(レムナント)のリーダーがそれぞれ互いに従うことは、端的に、このような仕方でお互いに敬意を示していることを表しています。そして、これこそが「新しい一人の人」である教会の主要な特質であり、エペソ書 3:10 の成就、そして福音によって諸国を変革し(transformation)、大宣教命令を全うするための鍵であるのです。

F. 預言者の言葉について。
2 世紀もしくは 3 世紀に預言の賜物は終止したと信じる人にとっては、今日において預言者が存在するはずもないでしょう。しかし、神は今日も預言者を起こされているという見解を否定しない人々のために、私たちの見解を述べたいと思います。5 役者のレベルの預言者は、聖霊から新鮮な活ける神の御言葉を教会のために聞くことに、その情熱を注ぎます。このタイプのリーダーは常に、しかも当然のごとくに、相当の時間を礼拝と静聴に捧げます。預言者は戦略的に教会と長老チームを導くための啓示をいただくことを切に願っており (使徒 13:1 におけるように)、その啓示はしばしば預言的な言葉や夢、幻、その他新しく聖書の御言葉に光を照らすような仕方で与えられます。このような預言者の務めは、ある特定の時点における信仰共同体のための神の特別な御心を識別するために重要であり、だからこそ彼らはエペソ書 2:20 におけるように、しばしば使徒と並んで言及されているので す。
多くの教会や霊的運動は、聖霊の働きと預言的なリーダーによって始められました。しかし、やがて彼らが預言者や預言的な働きを認めることができなくなることによって、それは古びたものになってしまいました。聖霊の新鮮な風を見分けてキリストのからだに聖なる柔軟性をもたらし、教会が聖霊と歩調を合わせながら、絶えず変化し続ける時代や社会に適応することができるように助けるのが、預言者なのです。もちろん預言者も他のリーダーとの間で、特に使徒と教師に対して、お互いに仕えあう者でなければなりません。それは預言者が受ける啓示が健全な聖書の教えの境界線を越えてしまわないためです。
また、イスラエルにおける最近の批判(特に偽預言者に関する申命記 18:22 などが引用されることが多い【訳者注】)に接して、私たちは、新しい契約の下では、預言の賜物を用いることにおいて、必ずしも 100%の正確さが求められているわけではないことを述べたいと思います。この点については、私たちが最近ヘブル語と英語で書いた論稿を、次の URL に おいてご覧いただきたいと存じます(https://tikkun.tv/we-prophecy-in-part/)。

(中略)


第5章 結論

最後に、私たちが初めに引用した御言葉である使徒 3:21 に戻りたいと思います。それは、Tikkun すなわち万物が改まる(回復する)ことについて語っています。主は、過去 150年にわたって、以上述べてきたような「神の御国」についての聖書的な真理に関する諸側面が回復されるペースを加速してこられたと私たちは信じています。
この時代に、イスラエルの回復(物理的にも、霊的にも)と新約の教会(エクレシア)の回復が同時に平行して進行してきたことを私たちが目撃しているのは、偶然ではないのです。この事実は、ローマ書 11:11―15、25―26 においてイスラエルと諸国との間に認められる、相互的な祝福に関する「なおさら」の原則(how much more)についての私たちの理解とよく符号します。
このような預言の成就に関する諸側面が同時に完成へと向かって進んでいく時どんなことが起こるのでしょう。それはまるで核分裂反応のようです。イスラエルとエルサレムの回復、ユダヤ人レムナントの信仰、本物の 5 役者、新しい一人の人としての教会(エクレシア) − これらの要素を一緒に合わせていくほどに、終わりの時代のリバイバル、世界宣教、 諸国の変革、聖霊の傾注、そしてついに我らの主イェシュアの再臨を迎えることに向かって、より大きな力が解き放たれていくのです(Ariel Blumenthalはこのことをその著書「新しい一人の人」において『完成公式(Fullness Formula)』と呼び、Asher Intrater は最近の著書のタイトルと同じく『アラインメント(Alignment)』という概念で、終わりの時代における回復の加速と求心力の高まり、そしてこれら全ての回復主義的要素の成長において現れる相乗効果を説明しています)。

Tikkun は、過去 40 年間このことを教えてきたし、それを祈り、それを生きてきました。私たちばかりでなく、他の人々もまさに私たちの目の前でこれらのことの成就が加速されるのを目撃しています(その証しを紹介するには紙幅が足りません)。もちろん、私たちは大いなる背教に関するイェシュアの言葉(マタイ 24:10)を無視するわけではありません。また、私たちは聖書が終わりの時代における艱難、迫害、大いなる暗闇と終末時代を通じて世界に現れる大災害を予見しているという事実を「覆い隠す」わけでもありません。しかし、本当に事態が悪化すると、私たちは地上から携挙されて、後は世界の最後の姿と栄光ある主の再臨を天国の巨大なスクリーンか何かでただ眺めるだけという観念には、誤った慰めしか見いだすことができません。預言者イザヤは、終末に近づいていく地上に生きることがどのようなものであるかということに関して、栄光ある逆説を次のように要約しています。

「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩 む。」イザヤ書 60章1~3節(新改訳2017)

イザヤは、深い、深い闇・・・しかしそこに偉大な栄光が輝いているというのです。でも、その光はどれくらいのものでしょう。主が来られる前の時代において私たちが見る栄光とはどのようなものでしょうか。数字や割合の問題に帰らなければならないとしたら・・・あえて父なる神はある数字を心に秘めておられると言いましょう。そして、父は主の再臨までに75%の成就に達することをあらかじめ決めておられると言いましょうか(もちろん、父はこれらのことを正確に測ることのできる唯一のお方です)。

(中略)

最後に、私たちは、自分たちだけがこれまで述べてきた真理の排他的所有者であり、リーダーであるなどとは全くもって信じていません。私たちは、この御国の成就の幻に導かれて祈り、協力している、イスラエルと諸国の双方における多くの兄弟姉妹に心から感謝しているのです。

(終)

1 ジェームズ王欽定訳によれば、この箇所は次の通り訳されている。
19 Repent ye therefore, and be converted, that your sins may be blotted out, when the times of refreshing shall come from the presence of the Lord;
20 And he shall send Jesus Christ, which before was preached unto you:
21 Whom the heaven must receive until the times of restitution of all things, which God hath spoken by the mouth of all his holy prophets since the world began.(下線訳者)
日本語訳と英語訳では、19 節と 20 節の区分の仕方が、ずれていることに注意されたい。

2 11 And He gave some as apostles, and some as prophets, and some as evangelists, and some as pastors and teachers,12 for the equipping of the saints for the work of service, to the building up of the body of Christ;13 until we all attain to the unity of the faith, and of the knowledge of the Son of God, to a mature man, to the measure of the stature which
belongs to the fulness of Christ. (Eph 4:11-13, NASB【New American Standard Bible】)

使徒的・預言的ミニストリーのための標準【要約】ーカリスマ的リニューアル運動における「謙遜、聖さ、誠実」を求めて
https://note.com/risingdestiny/n/n04ea42ba76c1#tDPnV


どう思われますか?

私達は全員罪を犯しており、神の裁きにふさわしい者達です。しかし、父なる神様は彼の独り子を信じる者達のための裁きを満たすためにキリストを送られました。創造神かつ永遠の神の息子であるイエスは、罪のない人生を送られたのですが、私達が受けるはずだった罪の罰の身代わりとして死んで下さったほどに私達を愛しておられます。彼は葬られ、聖書に書かれている通りに3日目に死人の中から甦られました。もし、あなたがこのことを本当に信じ、心から信頼するなら、イエスのみをあなたの救い主として受け取り、「イエスは主です」と宣言して下さい。そうすれば、裁きから救われ、天国で神様と共に永遠を過ごすことになります。


あなたはどう応答されますか?

もしあなたがクリスチャンではなく、今クリスチャンになりたいのであれば、ただこう言って下さい。「主イエス様、私の罪を赦して下さり感謝します。今日、私はあなたに従うことを決めました。私をあなたの家族の中に受け入れて下さい。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

WHAT DO YOU THINK?

- We have all sinned and deserve God's judgment. God, the Father, sent His only Son to satisfy that judgment for those who believe in Him. Jesus, the creator and eternal Son of God, who lived a sinless life, loves us so much that He died for our sins, taking the punishment that we deserve, was buried, and rose from the dead on the third day according to the Bible. If you truly believe and trust this in your heart, receiving Jesus alone as your Savior, declaring, "Jesus is Lord," you will be saved from judgment and spend eternity with God in heaven.

What is your response?

If you are not a Christian, and would like to become a Christian. Simply say - "LORD Jesus, thank you for forgiving me of my SINs, today I am deciding to follow you. Accept me into your family, in Jesus name I pray. Amen "

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詳しくは以下のリンク先を参照して下さい。
👉【福音】新しく生まれ変わる!(新生の祝福)
https://note.mu/risingdestiny/n/nb11945f61b7a

「天のお父さんからのラブレター」Father’s Love Letter - JAPANESE(7:06)
https://youtu.be/nWYmI_6tK28

永遠のいのちを受け取る(4:56)
https://youtu.be/m13Yae40ot8

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【預言の学び】預言とは&個人預言を受ける際の注意点(改訂版)
イエス様もなさった個人預言 の聖書の実例の解説、現在の個人預言の映像リンク集付き
https://note.mu/risingdestiny/n/n916fab966ed5


なぜ、ライジング・デスティニー(シャイニング・デスティニー)を始めたのか(20世紀〜21世紀の日本宣教史年表付)
The Reason We started Rising Destiny (Shining Destiny): The History of Japanese Mission from the 20th Century to the 21st C
https://note.mu/risingdestiny/n/nc415e4303df2

皆さまからの尊い寛大なサポートは活動費として大切に使わせていただきます。ありがとうございます。


note, SNS, WEB上にいる中国の異端のカルト宗教・全能神に関しての注意喚起

【教理の学び】三位一体(トリニティ)と現代の異端
https://note.com/risingdestiny/n/n534048dc9cd1
・三位一体(トリニティ、the Trinity):正統なキリスト教の教理
あなたを永遠に愛しておられ、あなたを唯一無二の存在として創造された、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は、まことにして永遠なる唯一無二のただおひとりの神(創造主)である。父、御子、御霊は、それぞれお互いに永遠に愛しあっておられ、同時にただ一つの唯一まことの神である。
・全能神教会(全能神)The Church of Almighty God:中国のカルト・異端。キリストが女キリストとして中国人女性として再臨したと説く。全能神の教祖・趙維山(ジャオ・ウェイシャン 1951年~)は自らを「大祭司」と唱え、大学受験に失敗し精神的に病んでしまった女性・楊向彬を「女キリスト」に祭り上げた。彼女は趙維山の愛人となり、後に妻となる。暴力、洗脳、ハニートラップ、スパイ活動など違法かつ強制的な布教活動を行なう。入会を断る、脱会を希望すると、「護法隊」と呼ばれる実働部隊が出動し、耳を削ぎ落とすなどの残忍行為を行なう。実際に死に至ったケースもあるという。2014年、中国山東省のマクドナルドで全能神信者が布教活動をし、勧誘拒否した女性を店内でモップの柄で撲殺する事件も起こっている。(2014年山東招遠カルト殺人事件)趙維山夫妻は、中国政府から弾圧を受け2000年頃に米国に逃亡している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/2014年山東招遠カルト殺人事件
フェイスブックグループ「キリストの羊」、フェイスブックページ及びブログ/HP「聖書の部屋」は一見するとそれと分からないが、「全能神」のサイトなので要注意。全能神信者がよくSNSでシェアしている。全能神信者は、人種(例.中国人が日本人に成り済ます)や性別を偽ってSNSアカウントを大量に作って勧誘活動を行なっている。noteの「高橋 智也」氏(momo125)、「ひで ひろ」氏(biblestudies)は全能神なので注意。
👉異端カルト110番
https://cult110.info/category/zennoushin-kyoukai-chinese-cult/

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