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君は二度と壊れた方がいい



夜が、風が、涼しすぎる。
夜道に神々しく光る自販機を頼りに散歩が捗る季節になってしまった。
海に入らずプールに浸からず
二十代最後の夏が終わってしまった。
いやまだ終わってないのが残暑長き東京。
庭の雑草は青々しく茂りたおしている。
縋りつくそう。


生活とは生産性と非生産性の両方を持ち合わせていて、比率は個人によるし、ましてや一体何がその人にとっての生産性になるかは尚個人によるものだ。

眠る間にみる夢は非生産的だと線引きをする人が大半だが私の場合は現実と同じくらい比重が大きい。
前にも話したが記憶の整理の表しが夢なので結局現実だとも言える。

と言っても最近の私は夢と現実の折り合いがついてきた気もする。
今日の夢は、布団でアメリカンドッグを食べていたら布団の中に呪怨的な子どもの化け物がいてそのアメリカンドッグを食われるというものだった。
意味わからなすぎて二度見したら目が覚めた。

私の記憶の整理から分析すると確かに寝る前に怖い漫画を読み、最近アメリカンドッグを食べたかった。

話が逸れた。

春夏秋冬全てに、つまりは365日、そんな区切らなくとも、つまりは生涯通して思い出そのものなのに人は何故季節に区切り“夏の思い出”と題するのだろうか。
思考は疑問だらけだ。

先月大学時代の友人4人と仙台に一泊二日の旅行した。
これは集団行動苦手な私にとってはかなりまれな事であったし、男女混同旅行でもあり、私には恋人がいるので側から見れば妙であろうが、私の人間関係は大体が一般的には理解し難いとされる。先日は前にnoteにも書いた元カレの結婚式オープニングムービーを撮影してそれもまた「なんだそれ」に違いないが、それらが成立している誇りもある。

話が逸れた。

まず旅のメンバーが全員映像関係の仕事をしている上によくできた制作がいるので
旅先をまず47都道府県ルーレットで決め、企画書・香盤表・実行を用意され、旅当日にはミッションカードが用意してあった。

ミュージックビデオじゃん。

いや、本当にミュージックビデオの撮影だった。
企画自体が20代最後の旅であろうとしていたものなので既存の楽曲に合わせてリップシンクなどがあったのだ。
世に放たれることのないミュージックビデオ。世に放たれるとたまったもんじゃないミュージックビデオ。

道中で繰り広げたミッションというのは
「○○に△△と言わせる」の言わせる系と「□□する」の行動系のミッションカードが約70通りありそれをクリアしていく加点式だったのだが負けず嫌いの集まりなので旅が終えるまでに全てのミッションカードが開き終えていた。

言わせた


一方、私は仕事で某アイドルのドキュメンタリーを約2年以上担当している。
私よりも最低6つ年下で、精神的にはまだ少女性を十分感じる。
今年の夏もツアーや企画を現在進行形で追っている。
彼女たちはこれから5人体制から増えるか減るか変動することが決まっている。
今まで通りの当たり前が失われることが決定されている。
毎日追っている訳でもないので彼女たちの全てなんぞ知れるはずもないが
この上記二つの思い出を比較すると確実に違うものがある。

青春の自覚、だ。

前者は意識的に思い出作りをしているが、後者は毎日そのものが思い出であることを言われず自覚していない。

意図的に行動や物質にすることは可能のことばかりだが、無自覚を持つことは不可能なのだ。
それぞれの思い出には自覚するのに時差があり、価値さえ人による。
思い出なんて何にもならないと言う人もいるだろう。

学生の時が最も無自覚だったであろう。
今や中学生活、高校生活がたった3年ずつだったことが信じられない。
当時その3年間に“たった”3年だと思ったこともなかった。
思い出と限っては成人になってからの3年、10年と区切ることもなくなる。

知ってしまう、自覚してしまうことを
私は避けたがっている。
知ったフリ、知らないフリ。
やはり私は嘘に耐えがたい。
だが最近友人に「知ってからどうするか」の話をされて、そういう考えもあるのが大人なのだなと思った。

今、外に出てみたら夏じゃなかった。
縋るはずの夏もいなかった。
写真も落として滲めばいいのに。 

子守中に持っててと言われた花

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