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行く末のツボミ




霧雨の中、そこにそれ以外何もないとしても
微弱な愛情が誰にでも与えられますように。


ご無沙汰です。
夏まるごとnote書かずに過ごした理由は
日記を書く前の弱ポエムが浮かばなかったからです。
私の数人の心のコアユーザーごめん。

こんなにSNSを放置して何をしていたかと言うと小説家でもないのに筆が進まない日が続いた。
実生活の充実ももちろんだが、私の中の陽気な私が日記を書かせてくれなかった。


小賢しいわ。
今年の夏の思い出はいずれ小出しにしていくとして私の2021年の秋のことを振り返る。


知ってる人はいないだろうが
私の家系はかなり御長寿で生命力が高い。

母方の祖父母も父方の祖父母も生きていて、
私が小学校三年生まで母方の祖母の母、私にとってのひいばあちゃんも生きていたし
高校三年生まで母方の祖父の母、私にとってのひいばあちゃんも生きていた。

「祖」によりゲシュタルト崩壊しそうだから理解しなくていい。
とりあえずめっちゃ爺婆は生きていたのだ。
尚且つ、祖母×2は癌になりステージ4までいったが今は元気に返り咲いたくらい生命力が高い。あまり聞いたことがない。
一人のばあちゃんは胃を3分の2取ってからよく食べるようになった。なんで。

そんな中、
2021年の夏に父方の祖父が亡くなった。
95歳だった。

2021年といえば新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)の流行真っ只中。
祖父が入院したと聞いた時にはもう感染症の流行は完全警戒体制で
私は病院に何度も行こうとしたが許されなかった。
北海道ということもあるし、私の親でさえ自由に面会できる状態ではなかった。
加えて親たちも東京にいる私を警戒して実家に帰ることも3年できなかったくらいだから、そこは飲み込むしかなかった。
飲み込むにも時間がかかった。
病院にも交渉したし、内緒で病院に行こうとしたり
窓から顔を出してもらって私が外から手を振るだけでもダメなのかと何度も親に交渉した。叶わなかった。

時々指折り数えるほどのテレビ電話で笑顔を見せてくれたが
結局会えないまま、じいちゃんは永眠した。

これがCOVID-19で私が受けた一番の打撃だった。

私は幼少期から本当に懐いていた。
反対にばあちゃんはとても礼儀作法に厳しい人でそれもそれで今とても感謝しているが、包容力があるのはじいちゃんだった。
そして家系的に私は唯一の女孫でもあったので私にとても甘かったと思う。
いつも秘密でチョコレートをくれた。

私はじじばばっ子なのもあるし、父方の祖父は一番私に似ていた気がする。
それは前にnoteにも書いた気がするが、のんびりしているし甘い物は棚に隠す。
服の趣味も合って、高校生の時はよくおじいちゃんの大きなニットを着ていた。
冬の大雪地域で車を爆走するのだけはやめて欲しかったが
一度も怒られたことがないとても穏やかな人だった。

いや、一回怒られた。
彼氏をじじばば宅に連れて行って一階で彼と一緒に寝ると言うと「嫁入り前なので許しません」と言われ、既に同棲していると説明しても折れないため
私は一階の和室に、彼氏は二階でじいちゃんと寝るスタイルになった。
じいちゃんの頑なな姿はそれ一回きりだ。

寡黙で、でもユニークで、几帳面で、ルーティンがあって、背も高くて、センスも良くて大好きだった。

初めて本当に身近な親族が亡くなったにしては私は受け入れるのが早かった。
それはもうあるだけの愛情をもらい尽くしたからだろう。
95歳まで生きたあなたの最期を受け入れる他ない。

初め私はそれだけ愛した人の葬式さえ参加を拒否されていた。
愛の大きさは関係ないにしろ、その拒否も私は断固拒否した。
無論、理解はできている。

葬式だって他の祖父祖母もいる。
親だっていい年だ。
葬式の連鎖が起こることは最も避けたいリスク。
東京から来た私が爆弾であるのには違いない。

そこで私は「お葬式には出ない」という選択をした。
“それでもじいちゃんに会う方法”で会いにいったのだ。

言い渡された条件は
①葬式前に会う
②会場内の親族と2m離れる
③式が始まる前に帰る
この3つである。

叶えてしんぜよう。私は私でそれを実行した。
羽田空港から旭川空港へ降り立ち、1時間特急電車に乗った。
式場に着くと既に2m離れている親族。

状況的にはカオス。私の周りだけ半径2mの見えない魔法陣。

母方の祖母が久しぶりに会う孫の私に光の速さで近づこうとするも全力で親族に止められる。×10回
5年ぶりに会う兄から2m離れた状態での嫌味。
「本当に理佐なの?」と2m離れた孫に孫か確認する父方の祖母。
笑うだろ。

私はじいちゃんの顔を孤独に眺めながらも
とても綺麗な寝姿に手を合わせ花を添えて私は会場を出た。
滞在時間15分。
北海道のリアルとんぼ返り。
それでも会いたかった。
それでも満足した。

やっぱり生きてるうちに何度も会えなかったことに後悔は残るができる限りをやれたと思う。
と言い聞かせながら私は帰りの電車でマスクをひどく濡らしながら東京に戻った。


御長寿家系の悲しいところは
こういうことがまだ何回もあるのだ。
とても誇りだが、寂しい未来だ。
愛してるんだから仕方がない。

あなたを愛しています。とても。今も。

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