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発狂しても許される場所 あるいは国 もしくは島





ワイパーが間に合わないほどの真夜中の夕立ち。
なかったと思わせるくらいの梅雨は過ぎたはずだった。
台風でもない。数日間続く単なる雨。


というのも約1ヶ月前の話。
ここ数日、寝床に入ってからnoteを書き進めては堅苦しい文になってしまうことを嫌がり、改めて新規の記事を立ち上げるを繰り返している。

世の中の化けの皮が剥がれ落ち、私たちは絶望を失うことなく目を背けようが毎日微弱なダメージとして受け続けている。
ここ一、ニヶ月の出来事はまるで目に見えた絶望だと思う。過去も未来も現在も否定されたに等しい。
辻褄が合うことは恐ろしいことだ。
だが、きっと諦めた先の方が酷く怖い結果になるだろうから私たちは諦めない方がいいのだが、少し休もうか。


息抜きについて話そう。
皆、どのように日常に息抜きを取り入れるだろうか。

旅にでろ
一人になれ
本を読め
よく休め
と人は言うが、勿論それらが効果的であれどその人にだけに該当する息抜きがあるはずだ。

私の場合は最も適切な息抜きの方法をまだ手に入れていない気がする。

毎日のように通う喫茶店がある。
大袈裟ではない。週に4日、私はそこでコーヒーを片手にソファに背中をつけ脚を組む。
一人の時も多いが、もう長い付き合いと言っていい程の関係たちが集い、時には話し、時には作業するのだ。
そして平均、週に1日は友人宅にいる。
私は孤独の集中力が短く、すぐに人の肩を借りようとする癖付いてしまった。
そして衣服の洗濯、食器を洗うこと、水を飲むこと。水に触れ、洗い流すことが手っ取り早いストレスからの解放だ。

ただこれらは惜しいことに習慣になってしまうと、息抜きとは少し遠い。

仕事で地方に行った翌日に個人で延泊したりするが、自分で手配する内容が多く、これも少し息抜きとは遠い。

何をしようと、僅かでも力が入ると私の息抜きとは遠く違うところに定義されるのだ。


待って、息抜きについて考えすぎだろ。
息抜けよ。

私の性質の一つで声にならない自分、つまりは心の自分が四六時中、私に話しかけてきて思考が止まらないのは産まれて間もない頃からだがそれを知人に話すと、思考ではなく単なる雑念だと判明してしまった。
ウケた。

何事も考えすぎてしまう人は存在する。
それを消費する場所は主にはSNSだ。
リアルの戦場では弱音はなかなか吐けない。
吐くと嫌われる風潮がじんわりある。
SNSはそもそも雑念の置き場所として誕生したはずなのだが、活動をしている人は仕事としてのプロフィールとして活用することが増えて他者から見られる意識が強いためミスができないところになってきているし
生活と共にSNSを利用している人は鍵付きが多い。

ただ確実に思うのは
いい男はSNSを全然やっていない。

さて、みながどのように弱音を吐き息を抜いているのだろうか。
私は不思議で仕方がない。
弱音を吐ける友人がいるのか、運動や趣味で発散しているのか、はたまた発散せずにいるのか。

息の抜き方のアンケートでもとろうか。
私はまた誰かに話そうとする。
随分孤独に不慣れだ。
次は孤独について話そう。



拝啓、皆々様。
どうか考えすぎないで
笑うことに疑問を持ちませんように。

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