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「面影」

次々と、景色は変わっていく。
消えていくもの。
代わりに増えていくもの。
目の前から消えてしまったものを、どれだけ覚えていられるのだろう。

記憶も思い出も曖昧で不確かだ。
削ぎ落されて美化されるものもあれば、経年劣化で苦さがえぐみに変わるものもある。
けれど大概それらはやはり曖昧でほんのし少しだけぼやけている。だってここにはもうないのだから。
でも、その目に見えなくなってしまったものたちから発せられる、透明な輪郭、みたいなものがある。
写真や映像のように切り離してしまったものとも違う。言葉にも形容し難い。刻まれて沁みついて残るものが、この世界にはある。
たとえば、川に架かる橋が生まれる前の、何もない空とか。その空と木々と川が、薄ピンクに染まった日の夕暮れとか。それを忘れたくないと瞳を凝らした私の影が、長く長く伸びていたいたこととか。
もういない彼らに、おはようと言う、余韻とか。
光が跳ねる朝、泣き出しそうな夕刻、対岸に佇む無口な工場、足元の無邪気でおとぼけ顔の愛犬。
そこに、私が愛したものがすべてあることとか。
ひとつひとつ、順番に消えて無くなってしまうとしても、みんなどこかに残っている。それは見えないもので、宿るもので、だとすると覚えている私がいなくなったら、どこへいってしまうのだろう。
見えなくなるだけで、やっぱりどこかにいきづいていくだろうか。

昨年末くらいから、川の向こう岸に見える、愛する工場の壁面が剥がされ始めた。
胸騒ぎ。
まだあなたはいなくならないでと、祈るように工事を見守る日々が続いた。
もう一つあった大きな工場は牛乳パックの上の部分みたいだった。その建物は、いつの間にかなくなってしまっていた。モミの木みたいな針葉樹の森の向こうに立つ錆びた巨大な建物に、いつも目を凝らしていた。近くて遠い川の向こうは私の憧れの場所だった。
新しい橋は、美しい河川の景色を変えてしまったが、私が対岸へ行く術をもたらしてくれた。
複雑な気持ちだった。
なぜなら、何もなかった場所から建造物が建つまでを見届けると、どうしてか愛おしさが湧いてしまったから。
橋の無い美しい空も、鉄筋が張り巡っただけの無骨な姿も、今思えばもう二度と見られないそれらの景色を経て生まれた真新しいコンクリートの塊も、知ってしまったから。
複雑なまま、橋が架かる前の景色も橋が架かったあとの景色も、どちらも今この生活の中にあることを受け入れていく。
きっと、開拓を渋った人たちも、この橋を渡って向こう側へ行っているのだ。
けれど大切なのは、なくなった場所にあったものを忘れないでいることだ。愛していたのなら、尚更に。

橋はさまざまな人が行き交う。
散歩する人、犬を連れている人、ジョギングの人、買い物帰りの人、タイトな格好をしたロードバイクの人、学生服の若者たち、仕事帰りの異国の人、積荷を乗せた軽トラ、釣り帰りの車、大きなコンテナトラック、車、人、車、車、くるま、ひとびと。
目的は違えども、橋はたくさんの人に利用され感謝されはじめている。この新しい橋ができたおかげで、新しい景色の中に生きる人々がいて、ここが日々誰かの生活と思い出の一部になる。

ようやく工事が終わり、工場の壁面は修繕され綺麗に生まれ変わった。
落ちてゆく夕陽が反射して、泣いているような窓の部分、あのつぶらな瞳が大きくなってなんとも可愛らしい。
もう現役ではない廃工場としての役目があるようで、大きなトラックが積み上げられた砂道を駆け上がり何かを運んで工場に入って行く。
秘密が多い場所だ。
きっと色んな感情が渦巻きこの大きな建物を恐ろしくも美しくしている。私の愛情を、理解できない人たちもいるだろう。
だとしても、私には必要な場所だから。まだ、生かされている、それだけでいい。あたなが消えて無くならなくて、本当に良かった。

冬が極まる二月初め、あまりの寒さを鑑みて、太陽が一番高い真昼に散歩に出た。
橋を渡り、工場に会いに行く。
こちら側ではなくあちら側の土手の上、最も近い場所で向き合う。
てっぺんを越えて逆光になり、向けたカメラには壁面が暗んだその大きな塊が映る。突き抜けるのに、柔らかく穏やかな青い空。
風が呼んでいる。
黄金色に乾いて揺れる草原に立ち彼を見つめた時、その面影に触れて気がついた。
まるで祈りを捧げる聖なる場所のようだということに。
近くて遠い対岸から、いつも語りかけていたここは、やっぱり私にとってとても特別だった。
橋が架かりものの何分かで辿り着けるようになったが、その距離はあってないようなもので、向こう側だろうが今目の前のココだろうが、臨むすべてが、それこそが特別だったのだと。
ここにすべてがある、写真にも言葉にも収まりきらないものが。

・・

新しい橋が架かるまで、その変わりゆく様をこの目に残したくて、まだ古いサドルの自転車の錆びた音を軋ませながら土手へ通い続けた。
川の様相は次々と変わっていった。
土砂を移動し、水流を止め、夜な夜な明かりを灯して作業人や工事車両が行き交う。
みるみるうちに足場が組み上がり鉄筋は複雑になっていき、剥き出しの巨大な影が橙と濃紺に浮かび上がる。標の旗が星空の帳にはためく。
工場や廃墟や巨大な建物や錆びた場所が好きな私にとって、毎日見ても飽きない場所になった。少しだけ忍び込んで、今はもう橋の中に埋もれたコンクリートの窓から、三日月を眺めたりもした。
やがて空を巨大なコンクリートが渡り、橋は橋として生まれた。
向こう側の工場が見えなくなってしまうのが心配で様子を伺っていたが、完全に消えてしまうことはなく頭をちょこんと出した姿にも少しずづ慣れていった。
心配していたのは、土手と橋のぶつかる場所が、川辺に降りていく坂道のところになるためその辺りの木々が切られてしまうのではないかということだった。毎日のように通っては、まだある、と安堵して帰る。
そんな日々を繰り返していたが、雑木林がすこしだけ綺麗にされ、アカシアの木々と竹藪と真ん中に立つ大きな木は切られることなく、今もなお橋を行き交う私たちを見つめている。
新しい景色の中に変わらないものがある。少し不思議な気分だった。忘れないでいたいが、人は忘れながら生きていく。忘れたくない自分を忘れないで生きていける、目印が残った。
風に木の葉がそよぐ音が、うれしくてせつない。
対岸の工場の瞳が、その日も夕暮れに潤み輝いていた。

目に見えないのだから、きっと面影というのは誰とでも共有できるものではないのかもしれない。思い出と何が違うというのか。
それなら目を閉じて、鼓動に聞いてみるといい。
あなたはまだ生きてここにある、その中に静かにこちらをみているものがきっとそれだ。
それは時間や記憶を越えて、生きたここに、すぐここに現れる。

数年ぶりの寒波で、珍しく窓の外一面が雪景色になった。次第に雪の粒は大きくなり、風で横殴りに飛んでいく。
しんしん、と表現するにふさわしい二月の朝だった。
この辺りで雪が積もることはそうあることではない。もう十年くらい前に、信じられないほどの積雪でみんな家から出られないくらいの時があったが、あれは少し異常だった。そこまでではないにしろ、数年ごとくらいでしか白銀に覆われる景色を見ることはない。
そんなやけに静かな冬の音を聞きながら、思い出すのは、決まって雪の日のあの出来事だ。

もうだいぶだいぶ昔のこと。
愛犬の文太を連れて自転車で散歩をするのが私の役目だった頃。
手付かずの場所、例えば空き地や畑、河原や土手なんかは10センチくらい雪が積もっていた。さすがに自転車では出られず、長靴を履いて歩いて散歩に出る。
なんとかいつもの土手に辿り着いたが、車道ではないところはもう雪をかき分け踏み締めて進むしかない。道なき道となった土手を斜めに走る畦道、真っ白い雪の中に柴犬の茶色のかたまりが突き進んでいく。
ようやく土手を登りきり、見えたのは息をのむような美しい景色だった。ひたすらに真っ白い世界と、濡れて黒くなった川面や木々や工場。吸い込まれるように白と黒の世界へ向かって歩き出した私たち。
突然、文太が立ち止まりパタリと横に倒れた。
一瞬時が止まったようになり、私の口からは「え?」としか出ない。何が起こったのか頭は追いつかないし、その倒れ方がまるでコントのように、綺麗に真横にそのまま倒れ雪に埋もれたからだ。
止まった時が動き出してすぐに大丈夫かー!と声をかけるとふらふらと起き上がるものだから、かわいそうにこの雪の中歩き続けてきっと凍えてしまったんだ、と思って文太を抱き上げて家に戻った。
ということがあった。
思えばあれからすぐのことだった。きっともう近づいていたのだ。

文太がうちに来た頃は、それはもうころころの毛玉みたいに可愛くて、散歩もずっと抱っこしてはなさないものだから、親にはそれはお前たちの散歩だと呆れられた。
大きくなった文太は犬ぞりの如く激走するようになり、自転車に繋いだ紐を力強く引っ張っていった。
少し抜けたところがある性格。ある冬に毛が抜けて夏に生えてもはもはになったことがあり、心配して病院へ連れて行くと、季節間違えちゃったみたいですねーと言われ家族みんなを笑わせた。
自分の尻尾を追いかけてくるくるくるくる回り続けるアホで可愛いやつだった。
けれど、犬が怖かった私のためにうちへやってきた彼は、小さなヒーローであり親友で相棒だった。
初めて鎖を離れてしまった日は、追いかけても追いつかず、探し回っても見つからず、一日中心配したが日が暮れた頃にはちゃんと家の前で座ってご飯を待っていた。
土手の近くで、なぜか私の足が側溝の隙間に落ちて抜けなくなった時には、頼んだぞ!と手綱を放すと颯爽と家に向かって走り、助けを求めて祖母たちを連れて戻ってきてくれた。
晩ご飯のメニューにボイコットをした思春期の私に、何時間も付き合って歩いてくれた。
夏の晴澄んだ夕暮れも、冬の冴える星空の下も、一緒に土手を駆け抜けた。
雪の日から、どれくらい経っただろう。
病気もせず、元気でとぼけた顔をしていた文太の、最後の散歩の夜。
抱きかかえて土手を登り、満天の星空を見上げた。
ここまで連れてきてくれた母は私たちの背中を、どんな気持ちで車から見ていただろう。
私はそこで文太と小さな約束をした。
またここで会おうねと。
言葉でもない、証拠も何もない、約束を。
番犬として外に居たが最後の夜は家の中で一緒に過ごした。うどんを一緒に食べて、こたつで一緒に寝た。
ずっと続けばいいと思った。
明け方まだ寝静まる中目覚めて、旅立った文太と、まだ一緒にいたくて、そのまま気づかないふりをしてまた眠ったこと、私は起きたけど起きなかった文太を庭に埋めたこと、土が、かけられなくて大泣きしたこと。
思い出すと今もすぐにでも溢れ出そうになる。
まるで昨日の事のように。
それはちょうど高校の卒業式まであと一ヶ月という時だった。
卒業式までのそのひと月、何をしていたか全く記憶がない。ただ卒業式で号泣したのは高校生活や友人との別れの涙ではなく、ただひたすらに愛犬とさよならしたことによるものだったということはよく覚えている。
初めて知った会えない別れは、今もここにあり鮮明を極めている。

橋が架かる時に残ったあの大きな木は、ちょうど土手へ登るところに立っていた。
目印を切られてしまうのが、こわかったのだ。
でもまだ大丈夫。今はまだ。
いつの日か、私も小さな小さな礫になって、ここに散らばって、この星に帰りたい。川の一部になって、砂の一部になって、木々の一部になって、大地の一部になる。
風の強いこの場所で、きっとまた駆け抜けることができる。
そうして遠い未来の誰かの面影になるのだ。

・・・

大きな河川に挟まれたこの町は、時に水に襲われたこともあった。
けれど日々の景色の中に、当たり前に川が流れることを、私は幸せに思っている。
それは 母なる海のようであり、心静める湖のようであり、あふれる泉のようであり、石や砂粒や木々や鳥たちと、この星の脈のように鼓動を打ち続けている。
大きな川に守られ山に抱かれ、風が私たちを守っている。

橋を渡って右側の土手へ初めて進んでみる。
そもそも橋が架かる前は、この道が通れるということも知らなかった。未知の場所、近くにあるのに初めての場所、そんなところはまだまだいくらでもある。
私たちは同じ場所に慣れすぎてしまって、いつも新しい世界がすぐそこにあることを忘れてしまう。
子供たちはそれをよく知っている。
新しい土手はたもとが竹藪でそれらはあまり高くない。高くないが背伸びをしても見えない枝の天辺に、白い小さな花が咲いている。
冬の晴れすぎた空に、白鳥の声が響いた。
振り返ると、見たことのない角度から橋と街が見える。
向こう岸の切られずに済んだあの大きな木も、ここから見ると小さい。
こちら側の土手だけを散歩していた人には、こんなふうに見えていたんだな。
あの工場も本当はどんな存在なのか、私は知らない。
母の知り合いであそこで働いている人も、秘密がある、ということ以上のことは教えてはくれない。
こちから見たら美しいものが、誰かの痛みを抉るかもしれないし、どこかのささやかな喜びが、誰かの悲しみに触れているかもしれない。
多角的に見れば、それは当たり前にあり得て、そして取るに足らないことなのだ。
その喜びも悲しみも決して誰にも奪えないものだから。
今そこにある人たちだけに、渡されたものなのだから。
それらを知る人々のなかにあるたくさんの面影で、消えていった世界が形を持たず生き続けている。
目を閉じて、呼吸をし、ひとりきりになれば、自ずとそう感じる。目に見えないものと繋がった時、その想いたちがそこかしこに浮遊して、夕暮れの横顔を切なく美しく照らす。
明日もあるかどうかわからないような、そんな不確かな未来を見つめる瞳の奥に、今日を生きるのに大切なものが息を潜め、静かに私たちに寄り添っている。


明日晴れたら、土手へ行こう。
雨が降ったら、今日を思い出して、また物語を紡げばいい。