見出し画像

「ポケットの中のWAR」

突然、ポケットの中のスマホから、不協和音が鳴り響く。
その報せは、例えば大地震や大津波、それほどの危機を知らせるもの。
その音が違和感なのは、異変と捉えてもらうためだとか。でもその異変にどう対応すべきなのか、どれが正解なのか、説明書はまだまだ書き途中のような気がする…

日本の空に隣国からのアーチが上空を横切った日、不協和音のサイレンが鳴ったらしい。
らしい、というのは、私のスマホからは音がしなかったからだ。
トレンドには77年前の世界と同じ言葉が上がった。
遠く北の北の地では、今もなお争いが続き、多くの命と日常と暮らしが脅かされ続けている。誰に心を預けても、痛みと悲しみしかなく、怒りの先にもやはり哀れな悲しみしかない。人々はそれを繰り返しながら日々を重ねている。
お昼に煮込んだビーフシチューには、痛みすぎた玉ねぎを丁寧に処理し、赤ワインや隠し味のオイスターソースなんかを足して、じっくりゆっくりくつくつとやる。
余白や手間を携えて生きていられることは、なんと贅沢なことか。その余白に、奥行きと深さが生まれて人は考える生き物にようやくなれる。
慮って、それでも痛みや悲しみは均等にならないけれど、忘れないでいればいくらからマシなんじゃないだろうか。そう言い聞かせて鍋をかき混ぜる。

サイレンのならない静寂の真昼の空を見やると、あまりの穏やかさに、ひと繋ぎの青とは思えない。
止まった風が、不気味だと祖母は言う。

祖母にとっての戦争が気になって、当時の事を聞くことがたまにある。彼女はあまり覚えていないらしい。そしてその記憶に痛みや悲しみは、無いらしい。
御年88の彼女は当時10歳ほど。七人兄弟の下から二番目で奔放で変わり者のヒロイン気質だ。祖母は戦争を、あまり記憶していない。運よく、心身無傷なのだろうか、本当のところなどわからない。ほとほと田舎だったがために、中心地の遠い空が赤くなった事と、空襲警報が鳴ると防空壕に逃げる事、それを朧に覚えているくらいらしい。
私の10歳の頃と言えば、阪神淡路大震災が起きた辺りなのだが、確かに大きくて長い高架が折れて倒れたあのうそみたいな景色の事くらいしか、正直覚えていない。ネットやスマホがない当時、どんな一大事も、テレビの向こうの話だった。

違和感の詰め込まれた音が、スマホから流れたというその日、祖母に防空壕の話を聞いてみた。ピンボケの老人ののうみそなので、確かな記憶かはわからないが、聞いたことのない話をしてくれた。
教科書でしか知ることのない世界の話に、私は興味を持つタイプで、100年弱前の日本の当たり前を生きた人からの伝承には胸がざわめく。
本来、受け渡され残らなければいけないものなのだと思う。それがどんな時代も、なんとか人が人として人を繋いでこれた術なんだと。

さて、問題のその防空壕だが。
今も変わらず呆れるほどの田舎であるこの辺には、運良く何も落ちてこなかったようだが、万一の避難場所としての防空壕というのは、どうやらどのご家庭にもあったそうだ。
男しが力を合わせてえっこらと掘った穴だそうで、そこそこ広いと祖母は言うが、おそらくそれは自分が小さかったからだと思う。(とはいえ祖母はもともと小さいおばあちゃんなのでもしかしたら本当に広いのかもしれない。)
家の前の竹藪のあたりに作られた、その手作りの穴は、普段は芋などを保管する冷暗所になっており、サイレンが鳴ると一家で逃げ込むのだそう。音が止めばまた元の暮らしが、続きから始まる。
手作業だとは思っていたが、私は勝手に穴はとても大きくて、地域に一つだけで、そこへ大勢が逃げていく、というイメージだった。
火垂るの墓やはだしのゲンやおばけ煙突のうたなんかを見てきたからだろう。
まさか家の前にあったという事に驚いた。
なんでこんな話になったのか、77年前には身を潜める場所があったが、今はそれが無い。無いのに、サイレンは鳴る。
それが小さな違和感で、祖母とそんな話をし出したのだ。
陽気な祖母に、今の現状についてどう考えるか…聞こうと思ったが止めた。防空壕で食べた芋が美味しかった話を楽し気にしだしたので、止めたのだ。
そんな祖母を見て、「この世界の片隅に」のすずさんの逞しさと笑顔を思い出した。たとえ何が降ってきても、暮らしがそこにはあったのだ。その命の先に、今私がいる。

そんな出来事からまたすぐ後のこと、緊張というのは連鎖して続いていくものだろうが、続きすぎると慣れてしまってそれもまたよくない。そのために忘れないという事が大切なのだろうと思う。

小学生になった頃くらいから、スイミングに通い始めた。同じ学校以外の子供と触れ合う初めての場所だったと思う。
記憶なんて断片的で、それを繋ぎ合わせたり補強したりして思い出が出来上がっている。けれどこの記憶はあまりの衝撃で、思えば私がこうして長い間気を置く、一つのきっかけのように思う。
家が隣の幼なじみも同じスクールに通いだすまでのほんの何年かの間に、私だけの友達ができた。
その一人に、朝鮮学校に通う同い年の女の子がいた。
苗字が一文字で読み方も一文字、珍しいなと同時になんとなく気が付いていたもののだから別になんてことはなかった。私にとって友達は友達だからだ。
髪の毛はサラサラのショートカットで、性格もサバサバしていた気がする。彼女からある日こんな事を言われた。
「もし今戦争が起こったら私たち敵同士になっちゃうんだよ。」
夏には決まって戦争を学ぶ特別な時間がある、その当時世界情勢に緊張があったかなどは幼すぎて憶えていない。
突然の衝撃、緊張、独特で特別な時間が流れた。
私は彼女に、そんなのやだよ、関係ないよ、友達は友達じゃん。みたいなことを言ったのだけれど、なんだかその時の彼女が、驚いたような怒ったような安心したような不安なそうな、何かを飲み込んだような…とにかく複雑な表情をしていたような気がして、その何とも言えない空気感覚が今でも残っている。
そっか、とでも言っていたような気がする。そのままそれまでと変わらず、着替えて二人で更衣室を出た。

時が経つにつれて、あの言葉をあのくらいの子が投げかけられる事が、どれほどのことだったのかと感じる。
あの年齢の私たちは、そんな言葉が出てくるほど学んでいるだろうか。
なんとなく、そうかもしれない、でもどういうことだろう、何かがあったのだろうけれどそれが何かは知らない。
それくらいの子供が複雑な感情を持って他者に疑問や不安を投げかけられるだろうか。
30年前の彼女はどんな気持ちだったのだろう。
あの時、私の言葉を聞いてどう思ったのだろう。
本当は何を思っていたのだろう。
ポケットにでも入ってそうな、その身近な不安に、今もまだ私たちは実感を持っていない気がする。
彼女にとってはあの頃からあったものなのに。
今の私たちにだって、すぐここにある、その悲しみの前でも何があっても変わらない自分でいられるだろうか。
次に不協和音がポケットの中で鳴る時、また彼女を思い出すのかもしれない。いや、できれば、祖母の芋の話を思い出して他愛なく笑い合いたい。
それでも彼女の後ろ姿を忘れないだろう。
どちらも、記されて語り継がれることはないのかもしれない。だからせめて私くらい、歴史の中の物語として、ここに残しておくことにする。