「すばらしい孤独」
師走の真ん中、いつもより人のざわめきが多い気がする電車が、晴れ曇りの土曜日を走り抜けていく。
来週のクリスマスとその先の年の瀬に向けて、少しづつ浮かれていく、人の心と喧騒。
それを横目に、ひとり移りゆく窓の外を眺める。
外気に対して温まりすぎた車内が、苦手だ。
けれど冷えた手は、上着のポケットに入れたカイロに触れても、外に出せばすぐにまた冷たくなってしまう。
騒がしすぎる私の街を抜けて、静寂を含んだ窓辺の街に降り立つ。しかしここもいつもより騒がしい。人溢れる改札を逃げる様に出て街路樹に入る。
やけに落ち着くのは、冬の空に負けじと高い木々の懐が深いからなのか、悠然と佇む凛とした石踏みのせいか。
所々に寄った大きな枯葉の山に、無邪気に飛び込みたくなる。
どこまでも続く広い並木道に、ちっぽけな私が、なぜか心地いのが不思議な街だ。
目的地までを逆算して動き始めたのだが、今日は少し冒険したい気分だった。
思いついて導かれることが、ひとりでいるとたまにある。
そこは車道から見ても通り過ぎてしまうような、がらんとした煉瓦敷きの広場で、ずっと気になって仕方がなかったのだ。どうにもそこに呼ばれている気がしていた。
今日はひとり。
歩道橋の階段を一段飛ばしで登っていく。
銀行の一部になっていたそこは、銀行なのか広場なのかその用途に困っている寂しさも抱きつつ、誰かにとっての憩いの場所になっているに違いないとそんな風に感じた。
素晴らしく美しい場所だった。
表からは全く見えない深いところに、秘められた建築が佇み、しばらく覗き込んで時間を忘れかけてしまった。
丸や三角に敷き詰められ立体化した経年煉瓦が、洋酒のように芳しい。
踊り出したくなる、が、通行人がいないわけではないのでやめた。
しかしここは本当にがらんとしていて、それなのに胸が躍る。誰も居ない、いつもより寒い冬、満たされていく孤独にこの身を預け、私は茶色に染まっていった。
後ろ髪をひかれながら、乾いた泉と愛の詩に小さく手を振って、広場を出る。
開場時間まであと一時間少し、お気に入りの紅茶屋さんを目指して歩き出す。もちろんいつもと違う道を、思うまま、行ったものだから少し時間ロスしてしまい、足早になる。
ほてったまま駆け込んで店内の奥へ、手前で茶葉を見ていた人を横目に席を案内される。少ししてその人も店内奥へやってきたが、満席ですと断られていた。滑り込みだったのか、なんだか少し申し訳ない気持ちにもなるが、今日はこの時間に感謝してメニューを開いた。
車で来た時には飲めないラムレーズンのロイヤルミルクティー、メニューには無いが店主の方の親切で出して頂ける事になった。
初めて飲んだ時はこんなにおいしい飲み物があるのかと胸が高鳴った。その事を伝えると、「じゃあラムをたっぷり入れて作りましょうね」と、言ってくれた。
薄曇りの空から、一瞬の西陽が硝子の一輪挿しと濃茶のテーブルと私の睫毛に憩う。濡れた瞬きに、朝陽のような希望と、慈しみ深い夕暮れが跳ねる。
そっと「深呼吸の必要」のページを開く。
どこか共鳴する章に、懐かしさと畏れと愛おしさが混ざる。
至福の時間が少し過ぎると、ラムが多めに炊きこまれた、待ち侘びたミルクティーが届いた。いつ来ても素敵な紅茶食器と、くゆる湯気にうっとりとする。
満席なのに静まり返る店内。奥まったところにいる男女は、向き合って言葉交わさずカップをゆっくりと口へ運ぶ。隣の親子は同じ窓際で日差しに照らされながら、お父さんは文庫を広げ、お母さんも本を読みながら銀食器からお茶を注いでいる。真ん中の大きな眼鏡の息子さんは、西陽の方を向いて目を閉じている。
この無口な紅茶屋が、大好きなのだ。
極上の孤独と共に口に含んだラムとレーズンとミルクと紅茶が薫り高く身体を揺蕩うのがわかる。
冷えた身体を濃厚なひとときが温めてくれた。
そろそろ、時間だ。
川沿いを歩く、薄い膜の上を乾いた風が通る。西陽ももう、雲と山の向こうだ。
あっという間に皮膚の内側まで凍えきって、中にも外にも温もりを探して、また彷徨っている。
鈍色の夕刻。
臨江閣にて。
久方ぶりに生で浴びる音楽に、指先が痺れる。大きなスピーカーから鍵盤の音が弾かれた瞬間、身体を突き抜けて入り込んできたのがわかる。これだ。ありきたりな言葉で言うが、音楽はいい。
この場所が、戦火を免れここにある事と、今日ここに集う私たちのそれぞれの時間と命が交わるのは、どれだけの奇跡なのだろうか。
触れられない距離で、震えあうたましいで、それぞれの視線で、抱き合う。
ぴたりと埋まる。
ひとまとまりになる。
小さないのちに戻る。
私たちは鈍色の、輝きの中へ。
Sundayカミデさんの、歌うように吠えるピアノが声の底火となって轟々と放たれる。時折掠れる高いキーに、どうしてだろうか懐かしさと愛おしさを感じてやまない。
落ちた灯の中に浮かぶ、喜びと、擦り切れそうななにか。渦巻く、巻き込んで弾ける、硝子戸の向こうに宇宙がやってくる。
蔡忠浩さんの伸びる声音はどこまでもどこまでも続いていきそうだ。艶やかで滑らかな糸の集まりは力強くなのに繊細で、終わり際の残り香に想いの全てが含まれている。ぎゅっとなって焦がれて、空を仰ぎたくなる。
天井から垂れた格子の燈の幾つかが、瞬きをするたびに光を伸ばし、すっと頭上に差す。
鼻にかかって抜ける余韻に、愛おしさも寂しさも痛みも切なさも全部投げ出されて、昇華されていくみたいだ。
どちらもお喋りが始まると笑い起こり笑い合い朗らかに場が温まる。
だが、音楽が始まると途端に、切なさや悲しみを恥ずかしげなく纏った音の滝の中で、真っ直ぐ突き刺すようにこちらを見ている。孤高の憂いが素直にそのいのちを燃やしている。
目が逸らせない。
孤独が、輝いていた。
苦みを知っているから、味わいが深くなるとは一概には言えないが。その噛みちぎりそうなくらいに噛み締めた、鉄の味滲む時間は、生み出す者の命と同化して濃くなるのかもしれない。
それを割ってしまうのは惜しい、この純度を小さな木箱にしまって、私たちを取り巻く温かい光で酔い明かしたい。
それぞれが声密やかに、音楽に揺れる、素晴らしい時間だった。
伴うものは甘いものばかりではないかもしれないが、忘れられない夜をくれた、あの日あの場所にいた全ての人に感謝している。
帰り道、夜も更け深まる闇間を軽やかに歩くと、来た道の景色がどこか饒舌な気がした。
忘れ去られたポケットの中に手をやると、ぬるくなったカイロが、残された力で私を温めようとしてくれた。
砂粒が揺れて、耳に響いた。
皮膚の中が私なら、外は私以外ということになるのだろうか。
内臓は粘膜でひとつながりになるため、穴の空いた人間の構造上、外ということになるらしい。全ての輪郭の内側だけが私なら、私の部分は本当はとても小さいものなのかもしれない。
私というものは、とても小さく、薄い膜一枚で形を成している奇妙奇天烈な存在なんだと。
人はひとりの時、個であることを案外と受け入れている気がする。ところが、たくさんの個の中でこそ、ひとりであることを孤独と形容し寂しがったりする。
ひとりであることは、どちらにせよ変わらない。内側はどれだけ努力したところで見せられない。そうした部分が必ずあるのが人間だ。
見せられない内側の場所に密む、悲しみや歓びが、朝の光や夜の瞬きに照らされて、ようやく外側と繋がれる。
個である私たちに授けられた、内密な世界を、私は孤独と呼んでいるのかもしれない。
その場所は教えてくれる、切なくてたって、いいと。
もすうぐ一年が終わる。その中のある一日を、出会ったすべてを、小さな私の中に大切にしまっておく。
そのために開いた新しいこの場所もまた、大切に丁寧に築いていきたい。
この上なく、素晴らしい孤独の中にだ。