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「冒険しない理由」

ご飯を食べに行ってテーブルについた時、
流行りのデリバリーをする時、
ドライブスルーのマイクの前に立った時、
メニューという広大な地図を前にあなたは冒険する?しない?という話しをしようと思う。


思いもよらない景色が見たい。
いつものあの感覚に触れたい。
新しい世界には何が起こるかわからない恐怖が。
慣れ親しんだ道にはわかりきった結末が。
初めましてにしかない感動。
でもやっぱりあなたに会いたい。
どの選択肢の先に、今日の正解があるのか。いつも同じメニューを選ぶ私と冒険したくなる私の攻防戦は、何度繰り返しても前者勝利で幕を閉じることが多い。つまり私は、冒険しない。

ヒトは一日に最大35000回の決断をするらしい。そのうちのほとんどを誰かに委ねたほうが、きっと気楽だ。その気楽を楽しめたなら、数多の負荷も楽々に乗り越えていけるだろう。その時ヒトは、一体どんな顔をしているんだろう。
私はと言えば決断した後も目移りするくらいには、好奇心も捨てきれないのに、それでもやっぱり同じものを選んでしまうのだ。
会いたくなってしまうのだ。
好きで満たしたくなってしまうのだ。

そうして、繰り返して濃くなった記憶に中に、二度と食べられないメニューがある。

母に連れられて初めて訪れたサンレモ。
一見、ただの民家なのに扉の向こうは、天井が低いバーのような濃い飴茶色の世界が広がっている。まるで異世界のようだった。
金魚鉢みたいなまん丸い大きなグラスにクラッシュアイス、そこに注がれるジューズは深いオレンジ色をしていた。地中海という名前の煮込みハンバーグのようなビーフシチューのような料理は、初めての洋食の記憶だ。帰りにもらえるキャンディは特別で食べるのがいつも勿体なかった。

よく家族で訪れていたスパゲッティのお店、らんぷりーる。
そこにある謎のメニューが私の中で最も特別なメニューだった。名前はポコーネ…ぽこーあぽこーね?ぽこーねあいす?ぽこ…正確な名前ももう思い出せないし、名前の意味も分からないまま。だがとにかく素敵なメニューで、ここにしかないのだからますます魅力的だ。乳白色の杯のような高貴な器、顔が付いていたかは定かではないが、ライオンヘッドボウルのような形。器を封するパイをサクサクザクとあけ開くと、冷たいバニラアイスとキラキラのフルーツが中でほんの少しだけ溶けはじめている。平たい銀スプーンがやけに重く大きく感じた。胸がらんらんと躍る。この世の食べ物の中で一番美しいと思っていた究極のデザートは今でも輝いている。

デリバリーをてんやものと呼ぶ時代に地元にあった木曽屋さん。
そこの焼肉丼がとんでもなく美味しかった。すぐ裏の蕎麦屋ではなく、少し遠いその店にわざわざ頼み、そばやうどんを差し置いて選ばれる焼肉丼。甘辛のタレ、それが染みたご飯、お米は少しこわめに炊かれ粒だち、艶やかに肉の油が米をコーティングする。決して牛丼ではないのだ、柔らかくしっかりと味のついた肉は、贅沢なのに庶民的で特別な日の特別な丼に乗ってやってくる、それがまたたまらなかった。

どの店も、今はもう、無い。
そんな場所は記憶を辿れば他にもあるだろうし、きっと誰にでもあるだろう。
会いたくても、会えない。
想い出の中だけで今もゆらゆらと眩い。
だからか、私は好きなメニューばかり選ぶ。冒険はしない。
会えなくなるまではあなたを選び続けたいのだ。
でも、もし会えなくなったなら、その時はまた、次の冒険に出るのかもしれない。