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憧れのあの人

大学生は、出会いの連続だ。毎日毎日色んな人が自分の人生のなかに登場しては消えている。最近LINEのトーク履歴上位5位を占めているメンバーは、3ヶ月後にはすっかり別の5人に取って代わられてるなんてことは日常茶飯事だ。期待するだけ無駄。みんな何もわかってないふりして、とりあえず曲がかかってる間はすごく楽しいみたいに踊り続ける。不安、将来、辛さ。難しいことなんて考えて、ペースを乱すわけにはいかないのだ。そうやってみんな、自分の正直な気持ちなんてテーブルの下で綺麗なヒールやドクターマーチンの底で踏み潰して、その場を彩るキラキラふわふわした雰囲気と、香水の匂いの合間に気持ちの上澄みみたいなものだけ溶かし入れて、みんなそれに納得する。わかりやすいから。綺麗で扱いやすく、害がないから。そうやって、若くて魅力的でみーんな仲間な時代、それが大学生。物事に省察や本質なんて求めてくるカタい奴なんて、スワイプして消せばいいのさ。

そういうの、嫌いなわけじゃなかった。ただ、ある日からその速さについていけなくなった。正確には、一回きちんと止まって、足場を固めて、じっくりと見ていたい人が現れたのだ。

彼らは、これまで私が知り合った人物とは全然違った。自分のスタイルを持ち、その範囲にあるものについては丁寧に、真剣に向き合い大切にする一方、他のことはあまり興味がないみたいだった。彼らの周りには、違う風が吹いていた。そこでは誰も大きな声で話していなかった。誰かを説き伏せる代わりに、それぞれの持ち物について、穏やかに、少し得意げに、ユーモラスに小さな声で語っていた。私は強烈に彼らに惹かれた。それは強い力だった。彼らのことをもっともっと知りたくなった。そして私は、踊るのをやめた。

幸い私は本が好きで、フランス語なんかもちょっと勉強してたから、数少ない自分の知識と、本やフランス語を通した自分なりのちっぽけな世界観みたいなものを頼りなさげに下げて、おずおずと彼らの隣に座ってみた。手持ちはあまりにも少なすぎたが、誰かと話してみたい時、自分だけ手ぶらなんてフェアじゃないし、私だったらそういう種類の人間に対して歩み寄りたいとは思わないな、と思ったからだ。

予想していたことではあったが、彼らはそんな私を温かく迎え入れてくれた。ボソボソと自信無さげに話す私を急かさず、言葉が出てくるまで静かに待ってくれた。そして私が一通り話し終えると一つ頷き、話してくれてありがとう、と言った。それからゆっくりと、控えめに彼らの感想を述べ始めた。彼らは、私から近過ぎることも、遠過ぎることもない場所から私の話を聞いていた。そして、それを自分の望む形に歪めたりするのではなく、ひとつの事実として受け入れ、また丁寧に包み直して、私の元へ戻してくれた。

そうしたやりとりが何回か続いた後、私は、彼らの落ち着いた、清楚な物腰とその聡明さを支えているものは、彼らがこれまでに積み上げてきた正しい努力に裏付けられた、揺るぎない自信であることに気がついた。自分の考えに自信があれば、それを場に応じて歪めたり隠したりする必要がない。だから余計なストレスは溜まらないし、お互いの考えを示しあった上で得た人間関係は豊かなものになる。彼らの生き方はリーズナブルで、鋭く、魅力的だった。その頃にはもう、咀嚼しやすいように甘く味付けされたコミュニケーションの味なんて、とっくに忘れてしまっていた。

その後も彼らとの交流は続いている。彼らの紡ぎ出す穏やかな時のなかで、私は徐々に、すり抜けてく現在を必死で掬い集めるかのように動き続ける代わりに、たとえそれをやってる途中に自分の周りの90%のものが通り過ぎてしまっても、数少ないけれど自分が大切にしたいものを、今だけでなく未来に向けてじっくりと張り巡らせることを学んだ。

満たされない気持ちを、ただ訳も分からないまま動くことでやり過ごしていた頃は、とにかく不安だった。全てのものにわかりやすい答えや結論を求めた。それが手に入れば安心したし、手に入りそうもなければ簡単に諦めた。しかし彼らと同じ時を過ごし、彼らを見ているうちに、何かに対して時間をかけ、答えが出るまで目の前にあるものと真摯に向き合う楽しさを知った。そして、その道のりのなかにあるたくさんの感情や人との出会いこそが人をつくっていくのだと強く思った。

こうしてる今も、出会ったなかで思い出深い人ひとりひとりの顔を思い浮かべながら書いている。いつもその人のことを考えているわけではないけど、会えば必ず楽しくて、またいつか必ず会いたい人たちについて。



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