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誹謗中傷について思うこと

ひとのネガティブウィルスの方がやっかい

どうも。MIZU(@3477mizuku)です。

あまりにも、SNS界隈を賑わせるだけでなく、世間一般を巻き込み、いま問題となっているひとつである。

私見として思案してみたい。

ぼくもダメなものは、ダメと捉えている。

ひとがひとを傷つけて、人生を断たせてしまうのは、あまりにも酷くて、気の毒で言葉が出ない。

と言って、「なんてことするんだよ!!やめろ!」とも言う気持ちもない。
 
興味がないのではなく、これはひとりひとりの自由に委ねられているからである。

ひとを傷つけることを何とも思わない人、無意識にそうしてしまう人に「それは、おかしい!」「お前には感情がないのか?」という意味はないと思う。

そんな薄っぺらい、表面的なもので問題が解決するとは思えないからだ。

または、他人に対して下世話に「それっぽい」ことを言う自己満足に付き合うほど、人生暇じゃないはずだ。

加害者、被害者ともに、それぞれの事情があるものの、ネガティブな感情が集積爆発して、今回の現象が起こったのだ。

なぜ、誹謗中傷をしてしまうのか?理由について知りたいのだ。

そもそも、理由、動機を知ることで、加害者、被害者の立場、事情に寄り添えるから、理解しようとする気持ちも大切なのではないか。

ともかく、人間の性とはいえ、加害者=悪、被害者=善とする風潮が強すぎる。

ぼくはどちらの味方をしたいわけではなく、中庸、中立でいたいのだ。なぜなら、自分が感情に飲み込まれることではなく、客観的に見られるからだ。

客観的にいることは、つまるところ自分の心のバランスを取りやすい立ち位置だからだ。

善にも悪にもなれる、ポジにもネガにもなれる、両面を見れるようにしていれば、片方だけみて…という風になりにくいと感じたからだ。

全てのてんまつを見ているわけではないが、「犯人探し」がコロナ同様に行われていたので驚いた。

番組が悪い、加害者が悪い、被害者にも原因がある、仕組みが悪い、

だれかに責任転嫁をしたがる。

私が悪かった!と、加害者意識に立つのは聞いたことがない。

類は友を呼ぶ、は聞いたことがあるだろう。

関わる、相対するにはするなりの理由もあるだろうし、似たもの同士だから、人間関係も引き合うのだ。

それが、引力なのか斥力なのかは人それぞれだが、加害者も被害者も関係者も似たものがあるから関わっているはずである。

いい悪いではなく、同じなのである。

ここでやっかいなのは、(皆、そう思っているはずだから)と思考停止状態で、ひとを叩いたり、芸能人や有名人の考え方に迎合することだ。

他記事でも似たことを書いたが、思考停止によるネガティブ思考、というのは、やっかいなウィルスくらいと思っている。

カルト宗教や会社の文化に無意識に染まることとあまり変わらないようにも思う。

もともと、人間は洞窟で暮らしていて、とくに女性は家族、子どもを守るためにネガティブ思考を身につけたらしい。

不安、恐怖、怒り、保身、など…

生き抜くためには必要だった感情らしい。

今のような日本では、生きるということはよっぽどのことがない限り、保障されているのである。

えてして、ネガティブは邪魔なものではなく、生き延びるために必要な要素であり、個性と捉えたい。

ネガとポジも結局のところ、各々、自分の意識が生み出したものだから、自分で責任取れたらいいのだが、なかなか自分でコントロールするのは難しいと思う。

自分の感情を管理できてないから、無秩序に外へ外へと求めてしまうのだ。

この承認行動は永遠に満たされないので、どんどん他者への承認を求めてしまうのだ。

でも、この外へ意識を向けることがあるならば、

真逆には、内へ向かう意識だってある。

自分に対して内省したり、反省したり、悔いて改めたり、謝りを感ずる意識だ。

ネガティブをまき散らす人はどこにだっている。

その人、あの人がいい悪いではなく、常に「私が」どう思ったか?の感情の足跡を追っていけばいいと思うのだ。

すぐには難しいかもしれないが、

自分が満たされたら、他者評価や承認を求める行動やひとを傷つけることにエネルギーを注がなくなる。

というか、最初から戦う必要はないと思われる。

炎上や叩きの不毛な争いの結果、勝者なき戦いになる。全員敗者になることが決まっているのに、あえて争う必要があるのだろうか?

ただ、叩く本人、犯人には自覚はないのだと思うのだ。

他には、今回、京都アニメーション放火殺人事件の犯人が逮捕された。

犯人は殺害したことにも、遺族への謝罪もしていないそうだ。

そもそも、加害者の自覚がないと思われる。

自覚がないと何もはじまらないのだ。いくら償え、と罪を味わえ、と外野が言っても響かないが、

これも私自身と他人に自他分離境界線をひき、

犯人や加害者が犯した罪は、加害者が味わうことで、ブーメランのごとく返ってくる。それは、本人の自己責任なのだ。

と不快な感情が出ても、それにのまれない努力をすることが大切かと思う。

ともかく、加害者も被害者もこれ以上、恨み辛みを重ねないように、悲しい歴史を繰り返さないよう、連鎖を止める努力にエネルギーを注ぐことが大切に感じる。

もし、来世や輪廻があると仮定したとき、被害者側が、加害者側となって、立場が逆転してやり返す場合もあるかもしれない。

このやった、やられたの連鎖が、今の親子関係、夫婦(パートナー)関係、友人、知人と様々な愛憎劇を演じる要素になるような気がするのだ。

これを止めるためには、まず気づいた人が「私が加害者なんだ」と自覚することがスタートに思う。

この原点と動機があれば、これ以上ひとを傷つけよう、苦しめよう、無自覚にもならないと思う。

国家レベルでさえ、テドロス事務局長、トランプ大統領、習近平国家主席、そうそうたる方々でさえ、被害者意識だ。

あいつが悪い、この国が悪いと言ってて、問題は解決するだろうか?

ひとは変えられないので、ともかく自覚したひとから、習慣、動機を変えるしかないのだ。

誹謗中傷はこれからも形を変えることはあっても、なかなかなくならないだろう。

地球人という肉体に依存しないと生きていけない性だけど、

肉体の欲望に負けるのか、乗り越えるのかは個々にかかっているのだ。

僕自身、自分の汚い心グセに負けないように自省して、謙虚になりたいから、戒めとしてこの記事を書かせていただいているのだ。


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