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いつだってやりたがるのは傲慢

このところ、「そこまであなたがやる必要はないんじゃないの?」と色んな人から仕事のバタバタした迷いを批判されていたので、内心ではだってあるべき形に仕上げるならやらざるを得ないじゃないの、わたししか手を動かす人がいないんだからと思いながらじんわりと飲み込んできた。

珍しいものの並ぶ美味しい料理を食べながら、古い友人とゴージャスなパフェを食べながら、仕事の話になるたびにどうして伝わらないんだろうと思い続けていたのだけれど、もともとの考え方の基本が違っていたのだ。違っていたのはわかったけれど、間違っていたのかどうかはよくわからない。

わたしには、「あるべき姿」から遡って、やれるかやれないかはさておいてこういうことが必要だというのを洗い出す考え方の癖がある。これは長年培ったもので、一朝一夕には抜け出しにくい。必要になった行動に追われ続けているのが今のわたし、今までのわたし。

やったほうがいいのかやらないほうがいいのかと問われたら、間違いなくやったほうがいい。でも、それをやるのは誰なのかとなった時、本当だったら引き受けなくていいことを自分で抱え込んでしまう。なぜならそこにはわたししかいないから。わたししかいない状態に追い込まれている事自体がまちがっているのだが、それはさておき。

こんな考え方の癖にすら気づかずにずいぶんと年を重ねてしまった。抱え込んだことをやるために、次々あたらしく学ばざるを得ない。そのことは、わたしのスタイルにもなっている。

これを、根本的に自分でコントロールしない限り、120年生きるとして残りの半生すらもこんな風にして過ぎてしまいそうだ。ブレーキをかけて、今の仕事をスローダウンし、知らん顔ができるといいのだが。それは、わたしの修行でもある。修行に入るのか、入らないのか、残りの人生をどう過ごすのか、ここが考えどころ。

他の人から見たらたぶん、遅すぎるんだろうけどね。青春かよ。

明日死ぬかもしれないし、120年生きるかもしれない。死んで後悔無いように、生きて後悔無いように。どっちにしろ、自分の人生以外に責任を取ろうとするのは傲慢でもある。いくつになっても、もしかしたら同じことで何度目かなのかもしれないが、驚きを持って心がビーンと音を立てることがある。それが今日。

コーヒーの焙煎機がほしくてコツコツ貯金中。なかなか貯まらないけど、あなたのおかげで一歩近づきます。