プライオリティ

好きなものを聞かれた。あなたのことを知りたいから好きなものや趣味を教えて欲しい、と。この感情そのものはとても美しいと思う。相手のことをもっと知りたい、その先で時間を共有したい、という感情だろう。

自己開示は怖い。求めるのも求められるのも。それはきっと拒絶されるのではという恐怖から来ている。その恐怖を乗り越えなければ繋がりが深まらないのだと友人に説教をされたけれど、わたしはその質問をしてきた人と繋がりたい気持ちは無かった。と言うよりは繋がるべきでは無いと思った。だから開示をしない。恐怖だけが理由では無い。勿体ないからだ。

わたしの好きなものは、わたしが数十年の人生の中でコツコツと積み上げたわたしの分身達だ。わたしの感情を揺さぶり震わせる、大切なわたしの構成要素なのだ。それを妻子がいるにも関わらず下心で近づいてきた男に教えてやるなんて、勿体ない。

数年前に妻子のいる男性とデートを重ねた。彼が結婚をしていることは薄々気付いていたが、気付いていない振りをした。わたしはきっと彼のことを好きになっていたから。女性の扱いにも慣れていていつも気遣ってくれる、余裕のある大人の男性に惹かれてしまっていた。助手席のドアに子供の縄跳びが入っていることにも気付かない振りをした。その結果、わたしは真っ赤に目を泣きはらし彼は家族の元に帰るだけ。ずかずかとわたしの領域を踏み荒らし、彼のテリトリーは全くの無傷なのだ。あまりに不公平だと思ったけれど、恋は盲目。諸々を見て見ぬ振りをしたわたしにだって非はあるのだからと諦めて、彼が既に痕跡を多大に残したわたしの日常に戻り耐えるしか無かった。

何故こうも既婚者にばかり声をかけられるのだろうか。ひとりきりのエレベーターの中で鏡に映る自分の顔を見る。もうあと少しで30歳になる。数年前よりも分かりやすくなったほうれい線を伸ばそうと唇をすぼめる。

音が鳴りエレベーターが止まることを知らせる。急いで前を向き営業スマイルを作る。職場では気を抜けない。扉が開き、男が乗ってきた。わたしの好きなものを知りたいと言った背の高い、わたしより3つ年上の男。

「あぁ、お疲れ様です」

何食わぬ涼しい顔で挨拶をしてくる。自分を上手く隠す術を知っている、もしくは何とも思っていないのか。

「お返事、貰えなくなっちゃいましたね」

少し笑って彼は言う。
そりゃ、そうでしょう。あなたのラインのアイコン、明らかにお子さんが書いたパパの絵なんだもの。多分2歳か3歳くらいかな。人の男を盗る趣味も無ければ恋愛ごっこの道具にされるのももう嫌なのよ。それをおくびにも出さないで笑って会話をするわたしも大概嫌なやつかも知れない。
聞けば良いのだ。あなた結婚しているでしょう。奥さんがいるのにこんな事しちゃだめだよ、そう言えば良い。

「ごめんなさい、すっかり忘れてました」

「いえいえ。ご飯、行けそうな日ありますかね?」

「うーん、今月はちょっと予定が詰まってるんですよねぇ」

「あぁ、、いや、全然夜遅くても大丈夫ですよ」

エレベーターの中の数分間だけでも、彼と深く関わらない方が良いのだとわたしの経験が再度告げる。こう言うのはもっとお手軽な気持ちで人と時間を共有できる人とやって欲しい。お兄ちゃん、相手を間違えてるよ。

「また予定見てみますね。お疲れ様です」

そう言って止まったエレベーターから降りる。背中に彼の視線が刺さっているのを感じる。


自分のデスクに座りパソコンをつけたところでふと、気付いた。先程のようにはぐらかしているだけで、彼の誘いを1度たりとも断っていない。彼はわたしに執着しているのではなく、押したら何とかなると思っているだけでは無いか。

「うわぁ、、」

「どうしたの?フリーズしちゃった?」

思わず声が漏れ隣のデスクの女性が振り向いた。3年先輩の彼女は物腰柔らかく、とても気の付く人だ。見かけによらず彼女は機械が得意で、わたしの苦手なパソコン業務をいつも助けてくれる。画面をのぞき込もうとしてくれるのを慌てて制した。

「いえ!すみません、変な声を出して」

「あら、違うのね。なら良かった」

彼女は結婚をしている。旦那さんとは上手くいっているようで、週明けに旅行のお土産をわざわざ下さったりする。自分にそんな風に穏やかに共に生きていけるパートナーが出来る日が来ると、今はどうしても思えない。

「美樹さんって独身の頃、付き合うべきじゃ無いなって人のお誘いどうやって断ってましたか?」

「お誘い?わたしあんまり誘われなかったからなぁ」

はぐらかしつつも彼女は続ける。

「まぁ、絶対お付き合いできないなって人は普段から態度で示しておいたかなぁ」

「なるほど…じゃあ例えば既婚者とかどうですか?」

「えー不倫?絶対嫌だぁ。既婚者に誘われたの?」

コロコロと笑い出してしまった。こう言う明るくて穏やかなところも彼女の魅力なのだろうな。幸い今はまだ昼休憩に出ている人が多い。少し相談してみようと話し出す。

「いや、はっきりと聞いたわけでは無いんですけどラインのアイコンがお子さんがいることを匂わせる様なやつでして、前に指輪をしてるのも見たんですよね。最近は外してるみたいなんですけど」

「聞いてみれば?最近離婚したって可能性も無くはないし」

美樹さんの言う通りだ。たったそれだけのことが出来ない理由。

「…なんというか、恥をかきたくないんですよね。結婚してるか聞いて、そんなつもりで誘ったんじゃ無くてただ仕事の話がしたかっただけとかって言われたら、何勘違いしてるんだって思われたくないというか」

あーわかるわかる、とパソコンを操作しながら共感してくれる。少し不自然な間が空いて不思議に思っていると、でもね、と続ける。

「実はさ、本当に内緒だけどわたし昔に1回だけ妻子持ちの人のこと好きになっちゃってね。その時に思ったんだけど、好きのパワーってすごいのよ。わたしどうでも良かったもん、奥さんと子供のこと。ただわたしがその人のそばにいたい、わたしのことを必要として欲しいってそれしか考えてなかった。本当に馬鹿だよね」

美樹さんの横顔はとてもきれいだ。美樹さんが居ると周りの空気が少し軽くなるようにいつも思う。こんなにきれいな人が、過去にそんな風に独りよがりに人を求めたことがあったなんて到底思えないが、彼女の告白は続く。

「それまでに付き合った人のこと本当に好きだったし、大切にもして貰ってたのよね。でもその人はなんかもう全然違ったのよ、桁違い。わたしの中から出てくる好きのパワーが」

「でもね、やっぱり帰る場所って、いくつも持てないんだよね」

お互いね、と美樹さんは小さな声で呟いた。その表情は決して過ちを告白をしているものでは無く、過去を直視せず美化しているものでも無いように思った。うーん、とうなっている。話したくないことを話させているのでは無いかと少し焦る。

「ごめんなさい、変なことを聞いて。困らせちゃいましたよね」

「ううん、違うのよ。なんて言ったらいいかな。絶対に絶対に不倫なら辞めておいた方が良いのは間違いないのよね。でも、好きのパワーが膨れ上がってどうにもならない時は、一旦関係を持っちゃえば遅かれ早かれ終わりが来るじゃない。リスクは大きいけど、パワーを発散させて終わらせる近道ではあるのよね」

まぁ個人的な見解ですけどもね、と誤魔化すかのように美樹さんは笑う。

「でもねぇ、ゆうちゃんは駄目よ」

「え?なにがですか?」

「その人とご飯行っちゃ駄目よ、多分きっと。アラサー女の勘だと思って言うこと聞いときなさい」

拒否権は無い。おどけてわたしをそこはかとなく戒めてくれる彼女は本当に素敵な人だ。素直に頷いて仕事に戻る。

美樹さんの旦那さんとは1度挨拶をさせて頂いたことがある。別れた後振り返って二人の様子を見ると、彼女の手から荷物を取って顔を覗き込み、微笑みながら何か話しかけていた。美樹さんをとても大切にしているのだろうなと思った。旦那さんを見あげる美樹さんの笑顔。

現在進行形の話では無いのだろうが、独身の時、とも美樹さんは言わなかった。聡明な人だからわたしの質問と違う答えを口にしたと気付いているだろう。わたしが口外しないと、わかっているのだ。

携帯が鳴り、メッセージが届いたことを告げる。見ると、子どものお絵かきアイコンに通知がついている。電源ボタンを押して画面を消す。
今日のわたしの仕事は、美樹さんを旦那さんの了承の元、飲みに行く日取りを決めることだ。これよりも優先順位の高いミッションは今存在しない。思い違いなら別にそれはそれでいいのだ。ただ、誰にも言えないものが自己の内側で循環していて、それを吐き出す相手になれるなら。

「あ、好きのパワーだ」

隣の美樹さんが不思議そうな顔で振り向いた。

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