みぞれ・19(最終話)

「ごめんね、遅れちゃって」

「うん、大丈夫」

七夏はそう言って、黒い鞄からシンプルなシルバーのリングのついた鍵を取り出す。鍵は4つ付いている。ホットコーヒーを飲みながら東城はその様子を見ている。

「ありがとう。気を使わせちゃったね、部屋の鍵だけ置いていけばよかった」

思ってもいないことを口にする。これは無意識だ。東城は色々な場所で色々な人に会い仕事を集める。その為に良い印象を振りまいている。人に好かれるセオリーを組み立て身につけ、彼はそれを武器として仕事をしている。友人もいて仕事も自分の力で成功させてきた。その自信が、彼にそのセオリーをプライベートの女たちにも崩させなかった。感情を荒げることなど無意味というセオリーを。


彼女は彼の言葉が意味を持たないと気付かずにまた大丈夫、と言った。良くも悪くも彼女は深く考えない。人の言葉は額面通りの意味だけを持たないと知っているが、考えすぎると自分が辛くなることも知っている。だから彼女は考えない。思考を止める術を知っている、むしろもう癖になっているのだ。彼女が社会で生きていけるのは、ただ勘が良いからだろう。感覚で相手の望んでいることを察している。こうすればこの人は満足だろう。そうすれば、わたしに強い感情を向けないだろう。良い物も悪い物も。そうやって自分を守ってきた。

欲求を読み取る術を分かっていたとしても、それは表面上のものだ。深く関わればもっと違う物が見えてくる。彼女の怖がっている強い感情が。

七夏の携帯ケースに差し込まれた自分の名刺を見つけて、東城はふと思いついた。

「なっちゃん、今名刺持ってる?」

「名刺?持ってるよ」

七夏はまた黒の鞄を探り、自分の名刺を取り出して東城に渡す。ここに来るまでに思っていたほど不自然さを感じず案外普通に会話が出来ているな、と思う。

「七つの夏でなな、なんだね」

体中の血が急に熱くなったようだった。七夏は自分の体が急に熱くなったことに驚いて、何とか抑えなければと必死になっていた。東城は名前を知っていたが、知らないふりをした。

「俺はね、あきだよ」

七夏の携帯ケースに差し込まれた名刺を指さす。七夏はゆっくりと東城の名刺を取り出す。

「明るい季節で、明季だね」

「似合わない?女の子みたいな名前だろ」

いつも通りの彼女の笑顔で、七夏が笑う。体中の温度の事はもう忘れている。東城は嬉しくなってつい子供の頃友達に名前でいじめられた話をしている。

まだ風が冷たい。テラス席には他の誰もいない。冷たく尖った空気の中で、2人は自己紹介を始めた。
何度でも忘れてしまえば良い。創造のたびに相違があればそれだけで意味がある。


七夏が履いているグレイのパンプスの踵についた控え目なビジューがきらきらと、まだ深まっていない夜の光を反射している事に東城は気付かない。

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