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上演とはなにか

①『輪るピングドラム』を観た

余韻をしばらく引きずっている。『さらざんまい』の展開から、10年後のピンドラはこうなるのかもしれないと思っていた方向へ向かっていった。前編後編に分けて6時間ほどをかけることを選択したことに思いを馳せた。

演出について考えることが多い体験だった。テレビシリーズを再構成するというのがピンドラ映画版でなされたことだと思うのだ。もちろん新しいカットも増えているが、既存の物語を再構成していくという手法のこと。

ここからややネタバレ。
キャラクターたちが子どもになった姿で、対象がおらず海辺で「愛してる」と言っていくシーンはクィア表象として受け取った。呪われた子どもたちが画面に向かって、「愛してる」と言うのだ。この演出にしごく心打たれた。

②最近の稽古場で嬉しかったこと

『ことばにない』の登場人物の関係性、プロット説明を行い、みんなで話し合いをした。その後『ことばにない』の今後についての報告をし、「エンジェルスインアメリカやん!」というツッコミが来た時、なんだかすごく嬉しかった。それは私がその物語が好きだというのもあるが、それでも、なんだか嬉しかった。この物語の方向性や危惧についての話も出、みんなで、この物語の上演をいいものにしていこうという見えない何かがあった。こういうことを経験していると、本当に演技というものはなんなんだろう、という気持ちにもなってくる。

新国の『エンジェルスインアメリカ』は国家的同性愛問題という物語の枠組みを不可視化するプロモーションを行っているのではないか、という懸念がある。過日の「エンジェルスインアメリカやん!」の嬉しさは、不可視の方向に向かうプロモーションではなく、現代のレズビアンアイデンティティを巡る日本語で書かれた物語として『ことばにない』はあるのだということ、その物語を上演するためにはとても長い長い時間が必要であることを共有できた上で、あったというか。不可視に対しての、フィクションの抗いなんだと、わたしは思っている。

読むことも上演だと思っていた長いシコリに新しい層が現れたような。上演は行為だ、ということについて思いを馳せていく。なぜ、イクニは映画として上演したのだろうということも含めてですが。

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