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思って書くのではなく、諦めの上で、切実に書く

3月に『つかの間の道』の再演が終わり、4月からオフィスマウンテン『トリオの踊り』の稽古がはじまり、6月は那須塩原ART369プロジェクト『わたしのまち』の演出・参加を終えた。その後、喜界島サンゴ礁科学研究所とのプロジェクトでサンゴの産卵を観に喜界島へ。現在同プロジェクトのプロジェクト発表の準備をしている。その後サンゴ戯曲執筆などが待っている。

本当は『ことばにない』が終わり、今年はゆっくり過ごそうと思っていたのだが、ありがたいことに充実した日々を過ごしている。演出のみ、というパターンも少なかったし、俳優として作品に参加というのはこれまでにない経験である。

で、刺激的な人たちが周りにいることもあり、そろそろ自分もムニの新作の準備に取り掛かりたいと思うようになった。ワークショップもやってみたいと思った。
『ことばにない』の次のフェーズ。8時間の作品を書いたが、次に書きたいこと、試したいこと、思っていることはあって、そのぐちゃぐちゃを少しずつ整理したり、引き伸ばしたりしていく。楽しくがんばりますので、エーーールを送っていただければです。

都民ではないというのもあり、都知事選のあれこれは眺める感じであったのだが、なんというか、自分も被ったことがあり経験していることだが、女性であるということによっての印象操作、不利益を被らざるを得ない状況にさせる等等の手つき、本当に最悪だな、と思う。
それによって強くならざるを得ない主体というのもあって、とは言いつつも、あなたたちのおかげ?せい?で強くなっちゃったんだよ、とは言いたくない。

が、いつのまにか強くなってしまうことも、人間への諦めの境地に達さざるを得ないことも事実で、そうなった時に、自分というものが更にわからなくなるというか。作品において自分の大切なものを差し出して書く時、自分を優先させない方がいいのかもしれない、ということをこの半年くらいは思っていた。バランス感覚というか。大切なものほどその共感されなさに挫けるというか。個別的になればなるほど、んー演劇でやらなくてもいいことなんかなぁ、演劇では問いをやりたいなー、というのも思ったり。

わざわざ書くようなことではないかもしれないが、わたしの書く作品は好かれても、わたしという存在や思想は好かれないという当たり前のこと、その諦めの上での創作という感じが27歳からのフェーズで出てきた。好かれるために書いていた訳ではないが、エイヤー!と力を入れて書いて差し出した時に、他者との共感の薄さや、溝が生じることの確認が26歳の時にできてしまった感覚がある。

逆に言えば「わかりあえない」ということ、その上で描かれるその先、に見る側は共感するんだなーと思っていて。見る見られる関係における当たり前の確認だけど。

そんなことがわかってしまった上で、そんな諦めの上で、何をわたしは切実に書くのか、ということになってくる。思うを超えて、切実に書くというフェーズにいきたい。純粋にうまい戯曲を今は書きたいと思っています。

演劇作品をつくっています。ここでは思考を硬い言葉で書いたり、日記を書いたりしています。サポートをいただけますと、日頃の活動の励みになります。宮崎が楽しく生きられます。