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セリフを「声にする」ということ

着想、プロット決まる→第一稿完本(2019.5/26)→第二稿完本(2019.6/1)→第三稿以降の改稿・・・と、台本を声にしていく作業が進められた。声にしていく作業は主に三段階としてあったので、分けて見つめたい。また、プレ稽古の際に台本の入れ方の稽古を行ったので、そのことも書いておきたい。

(0)プレ稽古(セリフを入れることの確認)

プレ稽古は、容れ物システムを共有するところからはじまった。過去の上演台本を使って、セリフを入れるとは、できるだけ書かれているテクストの状態で体に浸透させていくことである、言い方を固定してしまうことを恐れている、という話をした。この時に、セリフを覚えるという作業の確認が行われた。

(1)第一稿完成まで(読むことでのセリフの調整と、流れの大まかな確認)

特に、第一稿は細切れの状態で稽古場に持っていき、俳優に声にしてもらう中で完本していった。ストーリーはすでに決まっていたので、人物がこの行動を取るのが妥当か、きちんと感情が動いているか、セリフは言いすぎてないか、を確認するための作業だった。円になり座って声にだして読む(大体3〜4回くらい)→置道具の場所を決めてシーンをつくる、を繰り返した。

このシーンを残すかどうかを迷っているということも俳優と共有した。そのシーンはある意味で浮いていたが、話し合うことで、ある理由から、シーンは残されることになった。

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(みんなできびだんごを食べた日)


(2)第一稿完成〜第二稿完成まで(読むことでのキャラクターや流れの違和感のあぶり出し、ストーリーの整理)

最終シーンが5/26に完成したので、5/27に第一稿をすべて声に出して読むことを行った。その日の日記がTwitterに残っているので、引用する。

声をいかに出すか、ということをプレ稽古の時からやっているけれど、本を全部通して読むことでその大事さを再確認した。同時にいかに存在するか、ということも付随してきていて、生活体の演劇と聞く身体は、ちゃんと続いている。写真撮り忘れました。2019.05.27(みやざき)

通読することで、気づきとして出たのは、主にキャラクターへの指摘だった。

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①一番書きたかったのは、のどかと小池の関係だったんじゃないか。実際この二人のキャラクターが一番書けている感じがした。

②田中のキャラクターが書けていない、田中が切実になることで、そのほかの人物への関係性に影響がある。

③みのりちゃんのことが一番理解できない。自分はこんなに真面目ではないから。

④まりちゃんが救われない感じがする。

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主に、②と④に苦戦した。第二稿完成までの作業としては、主に田中というキャラクターの補強と、みのりの行動の辻褄を合わせることが大きかった。

この時、田中はロジック人間でそれ故にわたしはあまり好きではない、かわいい感じすらしてしまう、という生理的な話が出た。しかし、田中をいかに魅力的に描けるかに掛かっている気がわたしも、俳優たちもしていた。俳優の藤家くんが「田中は男性代表って感じがして、嫌いになれない感じがする」と言っていた。キャラクターの方向性として、器用故にどの選択肢も選べてしまう、という方向から、器用故にどの選択肢も選べてしまうが、そこに葛藤があり、あえて選ぶ選択を取る、という方向に進むことにした。田中というキャラクターの行動のロジックに葛藤を見出すことで、わたしはなんとか書き進めることができた。

みのりちゃんに苦労したのも、真面目風に見えて、行動が嫌味に見えてしまうから、好きになれない、というものだった。しかし、このシーンのみのりちゃんは一番みのりちゃんらしい、興味があると、体が先に動いちゃうところがかわいい、という糸口を見つけ、そこに「みのり」というキャラクターのらしさを見出し、書き進めていくことができた。

また、まり、というキャラクターを掘り下げていったのも二稿完成までの時間だった。まりのシーンを追加することは、結果的に、小池の一面を補強することにもつながった。

俳優にはそれぞれのキャラクターが与えられている故に、キャラクターを演じるためにテクストを読み込む。俳優はテクストの重要な読み手だと考えている。例えば、稽古では、「ある出来事が起こったのに、このキャラクターが別の話をしようとするのってどういうことですか?」といった質問が出てくる。確かに、矛盾していると思えば、わたしはテクストの補強を行う。そのような、台本の筋を通す作業が第二稿で行われた。また、身体によってのコミュニケーションの演出をつけたのもこの時である。基本時にストーリーに依拠しながら、演出をする、というのがこの段階だった。お話に心が動くラインをつくる、という作業だった。どう移動するか、どう動くか、を決めることである。お話をひたすら完成させていく、見えるようにする、という作業には不安も伴った。以下はTwitterの日記から、引用。

今やっていることはこれまでの作品でやってきたこととは違っているのかもしれないと不安。テクストを信頼してるのはある。発話へのこだわりが表出されてない?けど、ニュアンス抜き稽古だってまだやってないもんなとか。明日も稽古。書きたいことはもう書いた。どうつなげるかとか、どうみせるかだよね。テクストを信頼しすぎてるんだろうか。ストーリーがある上で演出するってそんなどれも同じなことなんだろうか。わかんないな。(2019.06.02みやざき)

この日、稽古場を見学に来た栗山さんに、「いつもよりストーリーで、これまでやってきた俳優が「いること」に注目して制作してきたことはどうなったんだと思った」と言われた。たしかに、そうだと思った。「まだ、ニュアンス抜きもやってないから、なんとも言えないけど、とも言われた。改めて、「いる」ことを考えていく必要性を強く感じるきっかけとなった。キャラクターとしていること、わたしとしていることを両立することはできるのだろうか。できると信じて、これまでやってきたのだけれど。

そもそもわたしは、ムニvol,1『川、くらめくくらい遠のく』製作時は、物語があまり信じられないという態度を取っていた。それはわたしが現実を見つめて書く、俳句という文芸を中学校の頃からやっていたこともあるのかもしれない。だからこそ、ドキュメンタリー的な作品ができあがった。なぜなら、現実の強度の方を信じていたからだ。しかし、6月頃に、物語と現実は自分が思っているよりもずっと地続きにあるということを考えるようになった。現実を無視しない物語を作ること、また、物語を書くことをしようという思いが出てきた。「ない」ことが、「あった」ことになる、「ある」ことに見える、演劇の力を、戯曲の力を信じてみようと思えるようになったのだ。卒業制作で戯曲を提出して以来は、演出、シチュエーションや、現実を無視しないことももちろん大事にしながら、物語を書きたい、よりストーリーのあるもの、お話を書きたいという創作意欲が湧いた。だから、こそ、物語を上演すること、セリフを言う体をつくることを考える必要性を感じるようになった。エチュードや即興ではなく、セリフを喋るということは、「セリフを喋っている声」が「普段喋っている声」とは別にあることだと思った。微妙な遅れをはらんだ、普通に喋っているかのように思える、「セリフの声」がある気がした。だからこそ、わたしは、戯曲を書き、それを「セリフの声」で上演することが必要だと考えるのだ。セリフの声には、物語と現実のあわいを行き交う力が、そこには、いることが含まれるのではないか、といった思いがある。だからこそ、容れ物システムを実行したかった。また、容れ物システム、聞く身体をひらめいて、書いた直後に、濱口竜介監督の演出論を読んだ。悔しいーと思ったが、監督の演出論も参考にしながら、やってみたいことを洗ってみようと思った。

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(ムニvol,1『川、くらめくくらい遠のく』の際の稽古写真。架空の街を作っていく作品だった。)


(3)第三稿以降の改稿〜(ニュアンスを抜いてセリフを言う→戻す)

以下はTwitterに書いていた日記から。

体と言葉をずらす練習をした。基本はずらす。あとは、これまでの演出部分の確認。記号も足していく。つながりを増やしていってるけど、塩梅がむずい。(2019.06.04みやざき)

わからない。けど、生活体とは、いることで影響を受け合う体のことなのかもしれないと思いはじめた。それはつまりグルーヴだ。セリフが体になじんできた。こわいけど、いよいよいったん抜いてみようと思う。(2019.06.05みやざき)

今日は車座になって共有していく日だった。抜き稽古をしてみて、いったん抜く、というのはストーリーとは逆のことをやっていると思った。体と言葉の関係、つまり、出来事について、声をきっかけにして考えている時間なのだと思う。(2019.06.07みやざき)

抜き稽古を終え、戻してみました。いつか声のWSをやりたいと思えるものでした。ここからは、体の細部や音の調整をこつこつ積み重ねていきます。見えなかったり、言葉にできないような体の力をどんどん引き出していきたい。(2019.06.08みやざき)

抜き稽古をやったのが6/7、8で、8にニュアンスを戻して通した。ニュアンスを抜いた状態で通読(一部シーンは体をつけてやってみた)、からの元に戻してみるというもの。正直に先に言っておきます。抜き稽古は、濱口監督の演出論を参考にしながら、自分なりに行うようにしました。

(5)これから

抜き稽古で声の確認と全体の方向性が少し見えた。後は、体と声の調整だと思う。見えるようにしていくのが、わたしの仕事だ。

わたしたちはよく、車座になっておしゃべりをする。おしゃべりには作品の話も含まれる。わたしたちは話し合うことで、ここまで作品をつくってきたし、それはこれからも変わらない。とにかく言葉を尽くしたいとわたしは、稽古始めに言ったけれど、その作業に俳優のみなさんは、並走して、関わってくれている。本当に感謝している。

昨日、ニュアンスを戻した時に、どうしてこういう声が出ているのかわからなくて、声のわからない力みたいなのが見えて、そのことがすごく奇跡みたいな出来事に感じられた。俳優を通してしか、キャラクターは見えてこない、けれど、自分の声に気づくことがそのキャラクターの声を語ることにつながるのではないだろうか。「セリフを「声に出す」」ということ、声同士で反応することは、見えている力でない力、今起こっている力が働いているようなそんな気がした。



演劇作品をつくっています。ここでは思考を硬い言葉で書いたり、日記を書いたりしています。サポートをいただけますと、日頃の活動の励みになります。宮崎が楽しく生きられます。