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自分を大事にしながら演じる方法

宮崎です。先日、アゴラの事務所でお喋りをしていて、宮崎さんは演技をするってことに興味がないんですか、演じることが恥ずかしいと思うんですか、というような質問を俳優の日和下駄さんにされて、演技をしてます!みたいな演技が演技だと思われるのに違和感があります、と答えたけれど、演技をしてます!って顔をして演技をすることが嫌なのってどうしてですかと、続いて言われた。ああ、どうしてなんだろうと思って考え込んでしまって、今に至る。

シェイクスピアなんかのフィクション度の高い劇は大きな声で堂々とセリフを言うことが必要なのかもしれないけれど、日常生活で起こる話を演劇で行いたい時、俳優が戯曲の中のキャラクターに見えるように演出をする、つまり、俳優がセリフを言っているというメタ的な状態に見えることを目指すのではなく、そのキャラクターの言葉として、そのキャラクターとして話しているように見えることが目指される。(多分すごく当たり前の話)その方法を逸脱する時、形式が重要視されるが、わたしは形式自体を最重要視することにそこまで興味がないので、演じることの当たり前を通る必要がある。

じゃあ、なぜそんなにも演じることに立ち止まっているんだろう、戸惑いがあるんだろう、なぜ演じることをとても怖いと感じるんだろうという。でもこれってすっごく簡単に言うと「自分が大事だから」だなと思って。演じる時に、自分を大事にしながら、他者(キャラクター)を演じる方法を掲示したいというのがわたしの思う演じること、なのかもしれないと。「自分を捨てて他者になりきる!」みたいな演じ方ってどこか下手な嘘のように感じる。かといって、演じられていない、がんばって演じていますね!という見え方になることを目指している訳ではない。
わたしを大事にしながら、その人に見えるように(キャラクターに)どのように近づくかということだ。

「俳優を信頼しすぎている」と言われるときの「信頼しすぎている」ということがよくわかっていなかったけれど、確かに見え方のことは指示しても、「演じること」それ自体にまではこれまであまり踏み込めてなかったのかもしれないと大反省したところです。そのことが今わたしはとても恥ずかしい。つまり、「見える」ことと「演じる」ことの2つが必要で、その後者のほうが圧倒的に演出家の自分には足りてなかった。とか考えてると、劇の持続力のことが気にかかってくる。

演劇作品をつくっています。ここでは思考を硬い言葉で書いたり、日記を書いたりしています。サポートをいただけますと、日頃の活動の励みになります。宮崎が楽しく生きられます。