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演じることのわからなさ

「演じる」ということについて、わたしも未だわからないでいる。「役になりきる」のではなく、「その人自身でもありながら、演じている」状態を目指すというのが目指すところではある。

日常生活で会話を行うのと同じように言えるセリフもあれば、セリフとして書かれているため言いづらいセリフもある。物語の推進力が上がるにつれて、言いづらいセリフは増えてくる。わたしは基本的には日常会話なので、「言える」セリフが多いが、今回の作品では現代口語をやりながら「物語」度を上げることにしたので、言いづらいセリフが増えることになった。

先日、立ち稽古をしていたけれど、一度読みをしようということになった時、いつも取り入れている練習?みたいなことと、演じようとしすぎないでいいのではないかという話をした。けれど、俳優的には演じるということは、職業として当たり前になっているのだということを指摘され、改めて考える機会をいただいた。

「その人でありながら、演じる」ということは演じている俳優はキャラクターとして見えるということが前提である。「その人自身でもありながら、演じている」とは、演技が出来ない感じが出たほうがいいのかと言われ、それは違うと答えた。あくまでも、俳優は一人のキャラクターとして見えている。その人が、無理に演じようとすればするほど、メタ的になってしまうのではないかという危惧の話だ。メタ的とは、本当はそこにキャラクターがいるように見えたいが、俳優が役をやっているように見えるということだ。

無意識にやってしまっている(演じてしまっているかもしれない)ことを、立ち止まってみつめることは、演じることの固定化を避けることにならないか。本当はこんなこと、俳優には必要のないことなのかもしれないけれど、演じていることが、本当でないことになるのがどこか怖いのだ。そのままのわたしが、そのままの状態で演技をすることが常によいこととは限らない。



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