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わたしは多分まだ疲れていたし、退屈していたが、しかし。

今月行く予定の小沢健二のライブが今から非常に楽しみなのである。とても思い入れが強いから。子どもの頃にレガシー(車)の中でLIFEがかかって、家族でお出掛けに行っていた。

フリッパーズ時代に引用を多用しながら、置き換え可能性を歌っていた小沢が1stアルバム「犬は吠えるがキャラバンは進む」で「ありとあらゆる種類の言葉を知って、何も言えなくなるなんてそんなバカな過ちはしないのさ」と「ローラースケート・パーク」で歌って、最後にもってきた「天使たちのシーン」は13分間の曲。

ムニ『ことばにない』は8時間の作品だったけれど、そんな作品を作ろうと思えたのは、タルベーラの7時間の映画「サタンタンゴ」を観たこと、小沢健二の「天使たちのシーン」のこと、トニー・クシュナーの「エンジェルス・イン・アメリカ」のこと、濱口竜介の「ハッピーアワー」が大きかったし、上に書いたような「何も言えなくなりたくない」が大きなエンジンだった気がする。

わたしは物語なんて引用でしかないし、書き尽くされてるのでそれを繋ぎ合わせるということを『ことばにない』以前、2021年ごろまではものすごく熱心に取り組んでいた。けれど、自分が、2022年に、書くってどういうことなんだ?ってことをなんだか考えはじめて、それは前から考えていたことだったけど、今切実に思っていることをとにかく書く、ということの思想が少し強く現れるようになっただけ、なのかもしれない。けれど、今これなら切実に書けるかもしれない、というものを見つける、それを書きたい、ということの比重がかなり強くなったのだと思う。

『ことばにない』を2年間上演して、執筆期間入れたら4年くらいか、取り組んで、その上演が一旦終わった時、小沢健二の「ある光」とか「Buddy」をよく聴いていた。今思えば、大きな(とされる)取り組みを終えて、わたしは疲れていたんだと思う。

今年はとにかく休むって決めてたけど、委託された演出の仕事はやっている。戯曲はちびちびのペースで、今は、とにかくいろんな映画とか本とかインプット過多って感じで、長い戯曲ってよりは、これやりたい、こんなこと試してみたいをムニのメンバーと試行錯誤していて、それらは長編ってよりはまだ実験段階のものたちで、あー、わたしはまだ疲れているのかも、と今日なんとなく思った。まだまとめる段階でもないし、自分の定番ってスタイルが今の段階ではあるとはそんなに感じてない。

というようなことよりも、わたしが、今、ものすごく切実に思っていること、書きたい切実なことが見つかってない、ということがものすごく大きい。つまり、わたしは退屈している。疲れている状態である。

『ことばにない』を書いたけど、後編に関してはあまり自分自分しすぎると、他者がわかってくれる訳でもないし、共感性は低くなるし、そんな訳で逆に傷つくと知った。自分を差し出す時の距離の取り方を勉強した。けど、これが書けたこと、わかることができたことはわたしにとってはものすごく大きかったから、やってよかったとは思っている。あの時のわたしにはかなり特大パワーの怒りや祈りの気持ちがあった。

今のわたしの、退屈している、疲れている状態には少なくとも自分を差し出すことの怖さが尾を引いている気もしている。「女性の作家なんだから女性性をもっと書いた方がいい」と言われて、そんなに簡単に単純な自分のキャラクターを差し出せるかよ、とブチ切れたこと、21年に観た演劇作品の中の性的少数者のキャラクターの扱いに複数作品で怒りと悲しみを抱いたこと、当時は最悪だと思っていたそんな傷たちが、確実に『ことばにない』にわたしが向かう怒りとパワーのガソリンになっていたのだと思う。

けど、自分の思いはわりと今はそんなに大事ではなくて、その伝え方のほうに今は切実な思いがある。そんなストレートな伝え方して、伝わらなくて悲しいだけじゃん、ってどこか冷めた目で他者のことを眺めているわたしが最近はいる。今、ほんとうにでかい声で言いたいようなことが見つからないでいる。平田オリザは「伝えたいことなどないそれが現代演劇だ」なんてことを言ってるけど、いや、ガソリンは必要なんだ、とわたしは思ったりしてしまう。わたしの今、切実に思えることってなんだろうって、ずっと考えながら、やはり、退屈している。

また最近みたものの話。エドワード・ヤンに昔すごく影響を受けていた。最近「台北ストーリー」を観て、そんな自分の昔を思い出して、なんだか恥ずかしくて懐かしい気持ちになった。「台北ストーリー」では前半は整ったある意味お行儀のいい遠方からのショットが続くのだけど、後半になってくるとグッと近づいたり、物語の展開の破綻に沿うようにショットの冒険が続く。なぜ、エドワード・ヤンがすごく好きだったのか。わたしにはある程度お行儀のよい部分もあって、そこに乗ることもできるし、だけど、破綻させたいともがいていて、その道程に無意識レベルかもしれないけど、これだ、って思っていたのかもしれない。だし、「台北ストーリー」を観て、お行儀の良さも捨てなくていいのかも、と思えた部分があった。

國分巧一郎の『暇と退屈の倫理学』を読んでいる。退屈ってなんだ、って話が書いてあるし、何かを決めること、選択することは奴隷になることでもあるって書いてある。演出家は決めるのが仕事だって言われる。あまり引き伸ばすと、決めるのが仕事だっていうもやもやーっとしたフンイキも感じはじめる。決めること大切って言われてきたけど、奴隷か。もうちょっと読み進めよーとか。

けど、退屈しながら、ある程度満たされながらどこかイライラしている。やっぱダサいけど、超ダサいし嫌だけど、「愛」ってことはなんだかずーっと昨年冬くらいから気になっている。ダセーって自分でも思う。あなたがどんな思想を持っていても、それが自分が思う何かに沿ってなくても、あなただし、あなたを愛してるってことは別になにかの要素で愛するってことでもないだろうし、ただ、側で見守ること、見つめ続けること、関係すること、仲間でいること。それは「祈り」なのかもしれないけど、誰がなんと言おうと、それが対するものと比べてどんなに小さい共同体だとしても側にいること、盲目と言われても、バカにされても、思想に賛成できなくても、側にいること。側にいなくても、見つめ、祈ること。共感されて、共感されなくて、消費され続ける売った心を自分でちゃんと自分に戻すこと。自分で自分を愛すること。自分の好きなものを愛すること。それでも、他者を愛すること。愛の共有はいつだって難しいし、破綻ばっかだし、けど、それが切実な愛ってことだよね。だって小沢健二も「愛は過剰なものだ」って言ってたもんね。

演劇作品をつくっています。ここでは思考を硬い言葉で書いたり、日記を書いたりしています。サポートをいただけますと、日頃の活動の励みになります。宮崎が楽しく生きられます。