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前に向かって語る以外の、方法で想像を促す


舞台上から観客に向かって語りかけるという方法がある。

観客に向けて語ることは、舞台上で行われている行為を舞台上だけで完結させないという効果を含む。語りによって、観客は想像することを即興的に促される。その場で発生する出来事を共有し、観客と俳優とのコミニケーションが成り立つ割合は大きい。

(モノローグを多く用いる演劇の中にも、語りの対象が観客に向くものと、語りの対象が不明なものがあるので注意されたい)

多くの会話劇は舞台上で完結している。観客席と舞台上との間には透明なカーテンがある。だから、舞台上で行われている非現実を現実と認知させることができるほど「うまい演技」だと言われる。まるで、お茶の間で会話しているよう、オフィスで会議しているよう、だというように。

「うまい演技」によって、観客は舞台上の世界をその芝居を見ている間、リアルだと感じる。もしくは、リアルを目指していないお芝居であれば、うまい演技によって、非日常(芝居の世界)を展開させることによって、いいものを観た、という充実感を感じるのかもしれない。

演劇において嘘をつくことは当然のように行われるが、嘘をついているという「現象」(俳優にとっては状態)自体を、嘘の中身と同等に扱いたいと私は考える。

上記に挙げたような語りの方法は「現象」であり、即興性を含む。

嘘をついているという「現象」を会話劇で扱うことは可能か。

語りによって観客が想像することを即興的に促されるのと同じ効果を生めないだろうか。その場で発生する出来事、観客と俳優とのコミニケーションは、会話劇(話す対象が観客にない状態)でも可能なのではないか。

「現象」を生み出す大きなものとして、観客の方に向かう「まなざし」を挙げる。まなざしは俳優が見ているものを観客に即興的に想像させるのだ。透明なカーテンをまなざしによって破る、わたしたちは、まなざしによって、反応する。特に発話者たち、会話をしている人たちのまなざしによって。

また、一つとして、戯曲内の何気ない会話に観客への想像をはらむ会話を配置することもあるだろう。舞台上に部屋を立ち上げるとして、完全な部屋とは言えないような、抜け感のある舞台美術も必要かもしれない。ダイアローグだけど、飛ばす方法を俳優は知っているのかもしれない。

〈歪みの知覚〉
いないことがいることになり、ないことがあることにもなる、現前することで見られるそれらの嘘、「歪みの知覚」は俳優を主導にして、動作がはじまること、その場が規定されていくことで有機的に働くのではないか。また、「歪みの知覚」は逆説的に、嘘をつかない、ということにもつながっているのではないか。「歪み」とは、あくまでも、「ない」という前提の上でわたしたちはやっていますよ、ということなのだ。

ないことを含んだ上で、あるようにする歪みの知覚は、演劇にとって、ごく当たり前のことかもしれない。軽さ、即興性とも結びつく。今後も決めなければいかないこととの間で、実践していく予定だ。

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