声の遅れ・自然な演技について

最近考えてるけど、わからないことの、メモです。全然まとまりがありません。ほぼメモに過ぎないです。

○声の遅れ

2019年2月に上演した自分の卒制に自分自身も出演することになり、久々に俳優をした。俳優をして気づいたことがたくさんあって、やってよかったと思った。

その一つに、声の遅れがある。
俳優は、セリフがあって、声を出す。つまり、覚えている文字情報があって、声を出す、という行為が行われる。(わたしはこれをすでに「容れ物システム」と名付けている)
これは、セリフがない状態で声が出る(※ここではあえて、声を出すではなく、声が出る、とする)こととは、明らかに異なると思う。

舞台上の俳優は、ここなら動けるだとか、ここでなら声を出せる、といったことも判断している気がする。

物語より現実の方が強いと思っていたけれど、現実の線上に物語があることを意識していること、「たしかに現実の方が強いけど、それでも書くってことに何かがある」とある人に言われたことが、脚本を書く主なモチベーションとしてある。脚本があるからこその、声の出方のようなものがあるのだとしたら、それも、わたしが書きたい気持ちの一つになりえるのかもしれない。

○自然な演技とは

以前生活と演劇をなるべく同じ線上に考えられないかということで、生活体の演劇をつくりたい、という定義を行った。
さて、自然な演技とはなんだろう。
どのようにすれば、見られている中で、例えば、むしゃくしゃして、夜道で缶ビールを買って飲んだり、友達と焚き火をしたりした時の体はできるのだろう。

まずは、稽古場がひらかれた場所であることが必要になってくる気がした。普通におしゃべりができて、ものが食べれるようなそんな場であること。

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