『須磨浦旅行譚』について、および次に向けて

はじめに、『須磨浦旅行譚』にご来場いただきましたすべてのみなさま、ありがとうございました。この制作を通して得たことがたくさんありました。次の上演まで、時間を掛けて言葉を尽くしていきたいと考えております。

①はじめに: アフタートークについての話(当パン公開中) ②戯曲について: 言葉を「うすめる」という行為(途中、戯曲引用あり) ③戯曲について: 声の作用(容れ物システムについて) ④おわりに:次の上演へむけて(次も気になる方どうぞ!)

の順で書いております。つまみ食いもよし、全部食べるもよし、ご自由に見ていってください。

【はじめに: アフタートークについての話】

今回やったこととして、作品の上演に加えて、 アフタートークの実施がありました。このアフタートークには、制作の栗山さんが特に尽力してくださいました。はじめて観る人に、どのような言葉を届けるか、ということをたくさん考えてくださいました。(アフタートークについての詳しい内容は栗山さんが「須磨浦旅行譚」譚、として、文章を作成してくれています。→https://11-feruz.tumblr.com/post/182527476516/須磨浦旅行譚譚)はじめての試みでしたが、多くの方々が最後まで残って聞いてくださって、やってよかったという思いです。アフタートークは、当日パンフレットの言葉を登壇者に渡し、そこから話を広げていくという形式を取っており、当日パンフレットには今回の制作を通して、試したことや、得た知見が記してあります。ゲネを終え、初日の前日に家で作成したものです。以下が、当日配ったパンフレット。

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【戯曲について: 言葉を「うすめる」という行為】

わたしには、作品の立ち上げ方が別のかたちであったとしても、立ち上げるための材料として、読み取れることが戯曲には含まれているという思いがあります。戯曲の中に、身体の「出来事」は含まれる。これは、アフタートークでも言ったことですが、戯曲を書く時に行ってきた、言葉を「うすめる」という作業のことを少し言いたい。戯曲のプロットがあったとして、そのプロットの場で言わなければならないことをいかに遠い言葉で言えるか、ということ、セリフとしてというよりは、音・声として連鎖される「言葉」そのもののわけのわからない面白さを見出すこと。つまり、直接的でない手を見せることで、間接的に「それ」を思い浮かべることができる、という方法です。とことんはずしていく。具体的に、「うん」「ああ」などのセリフもすべて戯曲の中で指定しています。以下にあげるシーンは特に、言葉の掛け合いが多い、弾丸的な会話のシーンです。

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p29冒頭の「えー」「そういう」などの掛け合い、p29終わりからp30にかけてのダジャレ的な音の出し方などなど、こういうことがとにかく戯曲中に霧散されていました。したがって、前述した戯曲の「うすめかた」というのは、かなりロジック的な部分も多い気がします。

演出は、空間と声についての二点が主軸となり、空間についてはセリフを出すことで後出し的な場の発見があるということからの動きの提案を、声についてはどのように声をだすか、体をつくるところからスタートし、とにかく引き算で作品を作るというのが、裏目標のようなところがありました。今回は、声を出した際の関係性や距離感を場の空間に表出するということもあり、戯曲の速さ、スピード感と同時に、声の出され方に注目していたように思います。それはつまり、声の出し方や声の気持ちよさと同時に、居方にも注目するということであったように思っています。指先を動かすことでセリフが言いやすくなったり、声をだすための提案や実験は主に、役者さん発信で、具体的な声の指示を主に行うようにしていました。(俳優、藤家くんの、今回の制作についての文章はここ。変容と藤家くんが演じた松田の話をしています。→https://note.mu/fujiie/n/ne55961cfb677

【戯曲について: 声の作用】

わたしが今回を通して得たことの一番大きな成果は、「声」は同時に「音」であるということでした。以下、当日パンフレットの文章から少し、引用します。

わたしたちはどうすれば「話す」ことができるだろうというところから、「話す」ことについて見つめる中で、容れ物に言葉を入れるように、身体に言葉をなじませていき、相手の音に反応していく、演技をしない、という方法のようなものを発見しました。

以上のことは、戯曲を「うすめる」という作業の際にも関係しており、俳優さんに戯曲を声に出して読んでもらうことで、気になった間に、合いの手の「うん」を挿入してみたり、ここは、繰り返した方が効果的であることを発見できたことでもありました。わたしはこれを「容れ物システム」と名付けています。(容れ物システムについては、ココ。https://note.mu/ririca_m/n/n48ade330f2f6)容れ物システムによって作り出される、ほんとうの「声」同士の共振、掛け合いはできないか、ということが戯曲の「うすめる」と関わってきているように思います。稽古場で、声について質問された際、なぜ日本語ラップが好きか、という話をよくします。なぜ日本語ラップが好きか、それは、内容のリアルさと同時に、声そのものの個別性・特別性、およびリズムの音のずらし方が、その人であることに重なるからです。その人が気持ちいいと思った、ずらし、が例えば楽曲に含まれている。そのずらし、を聞く側はフックとして認知する。もっぱら聞く専で、ただ興味があってちょこっと知っている程度ではあるのですが、ラップは、内容と同時に声(音)やリズム、なのではないかということを思っています。

したがって、なにかをつくる、ということよりも、その人固有の「声」を探し、発話させることの方が豊かなのではないかと思い至ったということです。「声」そのものの固有性の方があるのでは?という問いです。以下に、声について行ったことをいくつかあげてみます。毎度本番前に早回しではなく、「抜いて回す」ということをやりました。一旦、ニュアンスを全部抜いて発話する、というもの。抜いて言うことで、より、「音」と「音」としての会話の度合いが高まる気がしたのです。今回に関しては、一旦は抜くけれど、上演時には「戻す」ということを指示しました。戻しても、抜いて回した影のようなものが、そこに居残るような気がしたからです。リズム、フックの付け方に関しては、戯曲中で指定されているという認識です。

【おわりに: 次の上演へ向けて】

制作を終え、前述したような、二個目の「連鎖される言葉そのもの」の、わけのわからなさ、にわたしはさらに興味が湧いています。弾丸的な会話の連続性と会話の緩みに対して、かなりロジックで、「声」に特化した作品として、詰めていきたい、というようなことを次の公演の材料として、ぼんやりと考えているところでしょうか。

ひとまず終わったー!という気持ちで、ダラダラするぞ、と決め込み、なにもない一日を設定していた訳ですが、またむくむく起き上がり、こんなことしたいかも、ということを思っているのが半分不思議な気もします。上演は終わっても、制作は全然終わらないんだな、と思い、そのことにわたしは、ワクワクしています。まだまだやりたいこと、実験したいことがたくさんあります。次はおそらく、ムニでの公演です。長くなりましたが、最後まで読んでくださりありがとうございました。

最後に、「須磨浦旅行譚」に協力していただきましたすべてのみなさんに感謝申し上げます。

宮﨑玲奈









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