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推敲といふ崇高な行為

今思えば、推敲なしで詩を書いていたとは、なんと無謀なわたしであったことよ、と。第一詩集の『月を剥く』は、ほぼ推敲なしの詩集。勢いがないと書けない、それを直すことで勢いがなくなるのが怖い、現代詩たのしい!の真っ只中、怖いもの知らずの時期(昨年の5月)だ。

それから半年が過ぎ、わたしの言葉がいかに間違った覚え方をしていたか、身に染みて分かってくると、これは大変だぞ、現代詩は確かに難解で、分かりづらいものも多いが、明らかな間違いを書いているかもしれないことが、恥ずかしくなってきた。

一気に書くこともあるが、最近の詩は殆ど、細切れで書き、言葉の意味を調べ直し、推敲する、を繰り返している。詩に触れない日はない。会社員兼主婦なので、空いた時間に推敲、書くために、evernoteを使っている。
手で書いていないので、たまたま同音異義語に変換してしまうこともある。それはそれで面白くて使ってみたりもするが、基礎的なミスは極力避けたい。

車の運転中、眠りに入る時、空想の世界のものたちに出会い、これをどう絵にしようか、一枚の紙に文字で描かれた絵にと思う瞬間、その高揚感が、わたしを詩からよそ見をさせてくれない。

何処にも行く宛のなかった空想を、詩として表に出せる、それを読んで自己満足に浸る、時に、いいですね、なんてありがたいことを言われる。一石二鳥どころではない。

年頭にあたり、自分に幾つか約束をした。年女である今年、あまりあれこれやろうとしないなどなど。
ひつじだもの、もふっとふわっといきたいものだわと思っていたら、なんだか縁は繋がってゆくらしく、2月と5月のイベントへの参加や、勉強会、公募、投稿など、あれあれ、おかしいぞ、どこがゆっくりだという状況になっています。ありがたいことですが、ゆっくりは実質的な量ではなく、心の持ち方であれたらいいなと思っております。

今年もよろしくお願いします。
(いまさら、、)

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